たくさんの壁 Arbeitsjournal

サボテン
Arbeitsjournal
2025年1月20日更新

たくさんの壁
(2012年10月27日開催)


工藤冬里


はじめに(編集部より)

本稿があつかうイベント『ウォール・オブ・サウンド』は、その企画者ティム・エッチェルス氏が友人・知人に依頼した「寄稿」が土台となっています(ちなみに、その寄稿〔寄稿者による選曲を含む〕を音楽監督である工藤冬里氏が引きとり、その印象をもとにしたアレンジによってその曲が会場で演奏されることによってこのイベントは完成します。詳細は本文参照)。しかし本稿においては、この寄稿は非掲載とし、編集部による要約のみを掲載しました(文脈の必要性から、プリンス《キス》の寄稿のみ掲載せざるをえませんでした。これは過去の開催時〔オーストリア、工藤氏は関係していない〕のものです)。

といいますのは、これらの寄稿はたんに寄稿者にとって友人であるエッチェルス氏の依頼のもと、イベント会場において演奏、または掲示(ないしは冊子で配布)されるために書かれたものであり、音楽監督である工藤冬里氏によるそれにたいする評価(どの曲を演奏するかの判断やそのさいに不可避的に生じる言説)が事後にこのようなかたちで一般に公開されることは想定していないものであるという話を、主催の国際舞台芸術交流センター(PARC)からなんとなしに聞かされていたのにくわえ、またなにより、これらの寄稿は寄稿者のセクシャリティや疾患にかかわる記述がふくまれる類のものだったのです。

しかし一方で、寄稿者の知人友人やその業界関係者も来場する可能性の高いイベント当日においてこれらの寄稿はイニシャルとはいえ署名付きで掲示され、また冊子にはさらにその一部の実名リストまであったこと、そしてなにより寄稿者の多くは直接/間接の度合いはあれどエッチェルス氏とつながる同業の演劇人であることをふまえれば、いちどパブリックに向かって吐き出された言葉がじつはその読者を選ぶものだったという主張をあとになって当事者がおこなうということは少し考えにくいのではないか、と考えもしました。

また、このイベントは当日の演奏が重要であるのはさることながら、その演奏に結実する工藤氏の批評行為も同様にこのイベントの眼目であることは明白であり、その意味においては杞憂かもしれない上記の憂慮のためにこのテキストが日の目をみない結果となることは避けなければならないとも考えます。仮に寄稿にたいする工藤氏の評価になんらかのネガティヴな空気が含まれる場合があったとしても、それはあくまで工藤氏と世間一般との距離を示すものにすぎず、それが即座に寄稿自体の価値をおとしめるものになるものではないというこのていどのリテラシーは、読者はすでに了承していると考えます。なによりも、「曲」というものはなにであれ、光年単位の距離からみればすべて夜空の星のひとつにすぎず、その差異はまちがっても優劣ではなく相性でしかなかったことはひとの世が証明してきたところです。

以上を考えあわせた結果、その掲載のために主催のPARCにたいして各寄稿者の掲載許可を依頼するなどのいわば媒体やメディアよる業界しぐさの真似事の類は、これは世にいうブルシット・ジョブをひとつ世に産み落とすだけの不為にしかならないだろうとの理由からおこなわず、寄稿と署名の掲載をあきらめ、編集部によるその要約を置くことにしました。ですので、この記事にPARCはいっさいかかわっておらず、ゆえに、その文責はすべて編集部にあります。

寄稿者のなかでこの「要約」を不快に感じられるかた、または逆に原文掲載を希望されるかたがいらっしゃいましたら、お手数ですが当ウェブサイトにありますメールアドレスから編集部までご連絡ください。




『サウンド・ライブ・トーキョー』という、なんとも大雑把な気合に満ちたタイトルの音楽展に参加した。それまでは「音楽」ではなく「舞台芸術」が専門だった国際舞台芸術交流センター(PARC)が、はじめて「サウンド」に特化し、演劇祭のキュレーター的な現状認識からマッピングした「音楽としての劇、あるいは舞台芸術としての音楽」の催し、といってしまってよかった。音楽面を依頼された『ウォール・オブ・サウンド』は、上野の東京文化会館で行われたそのフェスの3日間を横断するプログラムだった。
『ウォール・オブ・サウンド』とは、シェフィールドの演出家、ティム・エッチェルスによる、友人たちから集めたテクストにもとづく展示/コンサート。人生のある時点で自分を「守る」ためにかれらがもちいた歌や音楽について書かれたテクストをとおして、「皮肉な、あるいはなんらかの形での助言としての音楽、逃走あるいは避難の手段としての音楽、気晴らしの手法としての音楽、そのなかで逸楽に耽る暗い空間としての音楽、励ましとしての音楽、自己定義の形式としての音楽、一言でいえば、自衛のための個人的な(あるいは共同の)手段としての音楽」にアプローチする。オーストリアの美術館クンストハウス・グラーツの企画展『プロテクションズ』への参加作品として開始。そのさいには、美術館の警備員による合唱団が、集まったテクストで言及されている曲を演奏した。(PARC作成によるコピーより)
一読、音に額縁をつけて、個人史とともに回復させる試みであると知れた。3.11以降の現実に対処する音楽の役割などない、といった言説に傾きがちなこの時勢に、音楽の無力さではなくポジティブな役割を強調するこのアプローチの、演劇的な、一回りしてきた「がんばれ」あるいは反転するアイロニーとでもいうべき健全性(サウンドネス)に興味が湧いた。そして、そのようにして集められた「プロテクション」あるいは「ウォール」としての音楽を、美術館のロビーで、警備員たちによって組織された合唱団が歌う、といういかにもイギリス的なウィットに感銘を受け、選曲や編曲を引き受けることにしたのだった。
上野ヴァージョンでも、警備員とか掃除のおばさんたちが歌えばいいと思ったのだが、今回は子どもたちによって歌われることになった。それはこのプロジェクトを複雑なものにした。それでもぼくはホールではなくテクスト群の展示されるロビーでそれらが歌われることにこだわった。最初は、子どもらにスーサイドでも合唱させたらおもしろいだろうな、くらいの気構えだったのが、話が進み、前回オーストリアのグラーツで上演されたさいのものだという分厚いテクストを渡され、開いてみれば、たとえばプリンスの《キス》という曲を取り上げた男はこう書いていた。

●《キス》、プリンス

……16歳のとき、ぼくはアン・Wというきれいな女の子とはじめて恋に落ちた。彼女は古典的なカリフォルニアガールで、ブロンドで日焼けしたおてんば娘といった感じの、サーフィン、スケボー、スキーが誰よりもうまい女の子だった。ぼくのほうは青白くてあやしげで知ったかぶり、やぶれたジーンズをはいて長髪でイヤリングをいくつもつけ、スポーツなどやりそうにない男の子だった。でも正反対であるおかげでぼくらの相性はぴったりだった。ぼくらは恋に落ち、できるかぎり長く一緒にすごした。……1986年、ぼくは17歳でアンは16歳だった。
ぼくらは若くナイーブで、半年間はただキスをしていた。……ぼくらは無知で幸福だった。ただひとつの問題は、彼女の好きな音楽がぼくには我慢ならないということだった。アンが一番好きなポップ・スターはプリンスとジョージ・マイケルで、写真や歌詞を集めた革装丁のブックもふくめて、完全なコレクションを持っていた。それにたいしてぼくは違う星から来たようなもので、ザ・クラッシュ、メタリカ、アイアン・メイデン、それにボブ・マーリーのレアものなどを聞いていた。音楽にかんしてはぼくらは敵対していて、どの音楽をいつ、どこでかけるかだけがケンカの原因になっていた。1986年のこのころ、プリンスが新作『パレード』をリリースした。そのなかの一曲《キス》をアンはずっと歌っていた。ぼくに出ていってほしいのか、とふざけていうことしかぼくにはできなかった。ぼくの部屋にはぼくの音楽、きみの部屋にはきみの音楽、ということでぼくたちは最終的に合意した。
ぼくらは2年間つきあい、よくあるように、ぼくは大学に行き、彼女は高校の最終学年で地元に残った。連絡は取り合っていたが、「視野を広げる」ために1年間はお互いフリーになろうということになった。彼女が高校を卒業したときまた一緒になって、充実した一夏をすごしたが、彼女はカリフォルニアの大学に行き、ぼくはミッドウェスト大学に行ったので、離れざるをえなかった。
5年が経ち、たまに手紙のやり取りはしていたが、結局ぼくはヨーロッパに移ることになった。ヨーロッパの住居に着いてみると、高校のマキュリー先生からの手紙が届いていた。アンが自殺したという。何年も離れていたが、この知らせはぼくを打ちのめした。彼女はぼくの初恋のひと、ぼくは彼女のものだった、そして彼女は消えてしまった。葬式に行くのは無理だったが、彼女の両親と電話で話した感じでは、いずれにせよぼくは行かないほうがよさそうだった。ぼくは外に出て、プリンスの『パレード』をはじめて買い、アンの《キス》がかかるまで何度も何度もこのアルバムを聞いた。
ぼくは独りで、アントワープの他人のアパートメントで、プリンスを大音量でかけながら、初恋のひとの死を弔い、いつまでも彼女の部屋ですごした長い午後を思い返していた。ときおり、愛したひとを失ったというときにこのようなアップビートの曲をかけるのは不適切な気がして、ジョージ・マイケルの悲しいバラードにでもひたったほうがいいのかなとも思ったが、心の奥底では、彼女が喜ぶのはプリンスのほうだとわかっていた――すべてが可能で、すべてが新しく、前に進むだけでよかったあの短い時代とともに思い出されることを彼女は望んでいるだろうと。
この曲をぼくは「プロテクション」のためにかけたのだろうか。たぶん「ぼくらがもっと長く一緒にいたら?」「もっと連絡をとっていたら?」「ぼくがこんなに遠くに来なかったら?」「彼女が死んだ原因がぼくにあったら?」といった問いを避けるためにぼくはこの曲を使ったのだろう。アンの死の知らせを受けて以来、ぼくはこれらの問いから身を守るため、あるいは少なくとも、自分がそうした方向に向かいそうなときにこれらの問いが浮上するのを止めるため、このアルバムを使っているのだろう。

このテクストを飛行機のなかで読んだときは、酔いも手伝ってか涙を禁じえなかった。たしかに自分はいわゆるアンダーグラウンドというものをとおしてしか音楽を聞いてこなかったし、ここ10年は音楽そのものもあまり聞いていなかったのだが、これは、あたりまえの話だけれども世の中にはたしかにこういうふうに音楽を聞いているひとたちがいるのだ、という、急に視界に風穴が空いて末広がりの裾野が見えたような気づきだった。それで、集まってくるのが、どんなにnot my cup of tea、つまり自分にとっては「敵」でありつづけてきた滅びるべき「世」の音楽であったとしても、言葉のフレームによってそれが別の意味で生きるなら、それもいまできる音楽への仕事のひとつであろう、というふうに考えてみたのだった。若林奮が犬と自分との距離を輪切りの列として可視化したように、他者の脳内の音楽と自分との距離を社会彫刻できないだろうか。今回の「合唱」とは、その彫刻を見ながら子どもたちがおこなう写生大会のようなものなのだ。
「友人たちから集めたテクストに基づく展示/コンサート」なので、書き手はミクシィ風にいえば少なくとも「ティムの友人の友人」くらいの演劇、ダンス関係者とかその類いのひとびとである。ここからはじまる結構を説明すれば、まず、寄せられたテクストが曲ごとに提示される。署名は、ティムのコンセプトにより、全員イニシャルという形をとっている[編註:本稿ではすべて匿名にした]。ただ今回は、匿名といっても、展示の一要素として配られたブックレットに実名リストがあるので(イニシャルのみの完全匿名希望者もいたが)、ある程度「世」に出ている名前だと、会場でブックレットをもらったひとにはうっすらわかってしまうかもしれない、そんな「匿名性」である。それに続く「作者の気持ちはなにか」的な解題は、テクストのみから受ける印象に集中するよう心がけた。それでも名前くらいは知っていたというようなひとの場合はそれが少し滲みでてしまっているものもある。読み取ろうとしたのは、その音楽の「プロテクション」としての役割はどのようなものだったのか、さらにぼくの編曲というフィルターを通した曲解と妄想を子どもたちが受け止め合唱のような劇として表現することで、曲ではなく「音楽」そのものに新たな意味を付すことができるか、ということだった。やることになった曲については、子どもたちに向けて書いた文章も載せた。それは期せずしてぼくからの子どもらに向けた遺言めいたものになったのだったが。
自分ならばどんな曲を人生の「プロテクション」あるいは「保護の壁」として置くだろうか? なぜ自分はそれを選んだのか、あるいは「選ばされた」のか? そのようにして書かれたテクストは、伝言ゲームのように隣人に伝わっていく力を持ちうるだろうか? そんな自問のなかに音楽の力を解く現在の鍵があるのかもしれない。そんなことを考えながら、集まってくるテクストを読みはじめたのだった。


●《トレイン・トレイン》、ザ・ブルーハーツ

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者は、この曲への愛着の度合いはとくに明かさないので、そこはわからない。しかし、2011年3月の原発事故のさいに社会を覆う閉塞感を目の当たりにし、そのような社会をつくってしまった人間のひとりとして自責の念にかられたとある。そしてそこで「自分は何をすべきか」を自分に問い、そういう状況のなかでこの曲を聞いたという。寄稿者は、「見えない自由がほしくて 見えない銃を撃ちまくる 本当の声を聞かせておくれよ」といった歌詞に、まったく信用するものがなくなったこの国で戦い続けること、生き続けることなどの自分の願望を投影している。

子どもたちへのテクスト
このひとは、この歌を、「こんな世の中をつくってしまった自責の念」のなかで聞いています。偶然耳に入ってきたから聞いた、というのではなく、繰り返しこの曲の歌詞を思い出すことによって、「昨年の3.11の災害そしてそれよりも原発事故のとき、これから自分はどうしたらいいのか?」と考えているのです。「嘘だらけのこの国で戦い続けること、生き続けること、なにも信用できるものがない日本の社会のなかで叫びたいことが唄になっている……」とこのひとは書いていますが、音楽が、こんなふうに「考える」ために役立っていることを知ると、なんだか元気がわいてきます。
みなさんはブルーハーツを知っていましたか。80年代の中頃から、日本語の歌詞をパンクのリズムにうまく乗せて、ものすごく元気に暴れながら歌うバンドです。
「見えない自由がほしくて 見えない銃を撃ちまくる 本当の声を聞かせておくれよ TRAIN-TRAIN 走って行け TRAIN-TRAIN どこまでも」 この部分だけを繰り返して歌いますが、みんなはブルーハーツより若いので、リズムは、ブルーハーツよりもさらにもーっと速くします。どんなリズムかというと、汽車が走っていくリズムです。アメリカの黒人たちによって、そこからブギーというリズムが生まれたんですが、50年代のゴスペル(黒人の教会音楽)では、それをもっと速くして、みんなで大声で合唱するんです。指パッチンできますか。それを1秒間に3回くらいやれば、そのリズムになります。縄跳びの縄があれば、電車ごっこみたいにして、歩きまわりながら、歌うといいです。といっても、歌詞はゆったりリズムの上に乗っかっているので、そんなには速くは感じないはずです。大事なのは体のなかのリズムで、その速さがひとに伝わるといいです。

会場の様子
劇が始まるアナウンスによって、数百人の観客はホールの外に呼び出され、ふだんならワインとか飲んでくつろぐホワイエなのにとどこかしら不安気に立っており、人の密度の高さもあって、終始ざわざわしていた。46人のテクストがあちこちに展示されていて、英訳を添えて1冊にまとめられたブックレットも手に取ることができた。7人ほどからなる合唱団はそのつど、観客のあいだを縫ってカモのように移動し、当該のテクストの前で歌った。1曲ごとにテクストの場所が日本語と英語でアナウンスされ、興味ある者はブックレットを片手にぞろぞろと移動した。《トレイン・トレイン》は劇の最後の曲として演じられた。子どもたちは練習段階からこの曲が気に入っていた。選ぶ主体の側の「自責の念」が強調されているテクストなので、最初はうつむいてぼそぼそ歌ってもらうことを考えていたが、本番では念を押すのを忘れたので、助走でゴスペルのリズムに乗せてから送り出すと、かれらは大声で歌いながら元気にロビーを駆け回り、出口に消えた。それはそれでよかったと思う。なにせ、ゴスペルだからね。


●《チェンジズ》、デヴィッド・ボウイ

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者は10代のころ劣等感にかられ、つねに違う人間に変わることを夢見ていたと書く。しかし、この《チェンジズ》の歌詞、“Time may change me, but I can’t trace time”を知ることにより、「変化」とは本人の意思とは関係なく起こる、つまり変化の主体は時間であり、人は、その主体を知ることすらできないと気づく。また、その言葉が「変幻自在」なアーティストであるデヴィッド・ボウイから発されていることにも説得力を感じている。

子どもたちへのテクスト
デヴィッド・ボウイというひとは1970年代に一世を風靡したロックのスターで、若いひとたちはむずかしい本を読むような気持ちでかれの歌詞を一生懸命読みました。そういうひとたちのための雑誌も出ていて、その世代の考え方、感じ方が形作られていました。
このひとは、「変化(changes)」について、この歌から啓発を受けました。いま歌詞をとおして読めばわかるように、変ろうと努力しなければいけないけれど、いつも主役は時間だ、どうしたらいいんだろう、という内容の歌です。基本的になにもいっていません。でも当時の若いひとたちは、アルバムごとにコスチュームを変えるボウイのあとについていくことによって、なにかとんでもない変化、新人類みたいなものへの変化が起こるような気がしていたのです。変ですよね。
結局ボウイは金持ちになりたくない、という歌詞とは裏腹に金持ちになり、世界は原発のお金で動くだけの、はたらくおじさんたちの戦場のようなものになっていきます。ボウイが自分で予見したように、主役はいつも時間、ボウイの歌は無力でした。
英語で全部歌うと難しいので、サビ(ch,ch,ch,ch,changes.というところです)のところだけ繰り返して歌います。
70年代に若かったひとびとは、とても懐かしく思うと同時に身につまされるでしょう。そして、自分を変えることはできたか、世界を変えることはどうしてできなかったか、振り返って考える良い機会になるでしょう。

Ch-ch-ch-ch-Changes
世界を変えることはできるのだろうか?
Ch-ch-Changes
世界を変えることはできない
Ch-ch-ch-ch-Changes
ねえ、おじさん
Ch-ch-Changes
自分を変えることはできたの?
Ch-ch-ch-ch-Changes
ねえ、デイヴィッド
Ch-ch-Changes
自分を変えることもできないね
Ch-ch-Changes
《ロッキング・オン》とか読んでたの?
Ch-ch-ch-ch-Changes
世界を変えることはできない
Ch-ch-Changes
世界を変えることはできるだろうか
Ch-ch-ch-ch-Changes
Turn and face the strange
Ch-ch-Changes
世界を変えることはでき……

振り付けは「Ch-ch-ch-ch-Changes」を歌いながら時計の針のように腕を大きく一回転まわします。そのあとはみなさんで考えてください。

準備と結末
振り付けはぼくのバンドのドラマーであるハルコ(5歳)が幼稚園で習った「ワナビー」の振り付けを元にしたものを、みながアレンジして完成した。「『ロッキング・オン』とか読んでたの?」の部分だけは、’74年のボウイが表紙の『ロッキング・オン』を手にした大人が割りこむことになった。合唱団にひとりだけ、小柄なメガネの、博士キャラの男の子がいた。かれは最後の「世界を変えることはできッ……」で寸止めするところを担当し、それを極めた。本番では、そこが大変おもしろかった。


●《ダニー・ボーイ》、ビル・エヴァンス

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者は二十歳のとき、同じ部活の部員に失恋する。そのさいに、偶然ラジオから流れてきたこの曲になぐさめられ、その後もこの曲の入ったCDをレンタルして、ひとりきりで聞いていた。

子どもたちへのテクスト
ビル・エヴァンスの《ダニー・ボーイ》は名演です。でも、この曲が失恋の痛手を癒したのはなぜでしょうか。ビル・エヴァンスのピアノの弾き方に秘密があります。ピアノの前に座り、誰かが使った和音の響き(ヴォイシング、といいます)をただそのまま真似しないように気をつけて、自分だけの響きを作り出したいという、冷たい炎のような情熱で、一生懸命音を探しているようすが目に見えるようです。
それはまるで、恋に破れたこのひとが、悲しみの殻に閉じこもっているとき、ふと、外から聞こえてくる音に気づき、我に返って周りを見渡し、一生懸命工事しているひとがいるのに気づいたときのようです。注意して見ていると、その工事のひとは、時間という岩盤を掘削しているのです。それを見ているうちに、恋愛とは別の価値観もあるんだと、気づかされ、しばし自分のかなしい気持ちを忘れることができたのかもしれません。
このひとも、みなと同じように、生まれ落ちたらすぐに、時間に沿って、お墓に向かって歩きはじめるわけですけれど、この曲は、恋愛に片足を突っこんではいても、やるべき仕事はあるのだということに気づかせてくれました。だからこのひとは、それまでと同じように時間に沿って歩いていても、失恋のかなしみだけに気をとられず、いわば歩行に余裕を持たせることができました。
わたしたちも、消極的な感情に押しつぶされそうになっているときは、深呼吸して周りを見渡し、そんな「工事のひと」がいるのだということに気づきたいと思います。人生にはやるべき仕事、探求すべき事柄がたくさんあります。一度失恋したくらいで、そうした歩みを止めてしまうことはないのです。 さて、この曲には歌がありません。原曲はロンドン・デリーの歌ですけれど。これをどうやって合唱できるでしょうか。テーマの楽譜は与えられています。まずユニゾンでその主旋律をハミングで歌い、それからやってもらいたいことがあります。ひとりひとりが、音で、時間の岩盤を掘削するのです。それを即興(インプロヴィゼーション)といいます。それは人生のなかで、ひとりきりでおこなうべき、大事な作業のひとつです。自分で次の音を選んで、とにかく前に掘り進んでいくのです。出来のことは考える必要ありません。大事なのはそういうふうに時間に向かう姿勢だからです。だれかの真似をして進もうとすると、自分の時間ではなくなります。ジャズのひとは、「わざと」ほかのひとのフレーズを引用して進むことがあります。そのフレーズを「クリシェ」といいます。それはべつにずるくないです。とにかく、どんな手を使ってでもいいから、テーマを歌い終わったら、先に進んでください。あるいは、そうしようとしている、という姿勢を表現してみてください。仮にそれが沈黙だったとしても、それは立派な音楽です。


●《フロム・ヒア・トゥ・エタニティ》、ジ・オンリー・ワンズ

選曲理由のテクスト
二十歳のころ、大阪にライブで呼ばれたとき、相方がヤクザとくっついていなくなり、西成で南京虫の押入れみたいなドヤに3日ほどいて、「これ栄養あるかなあ」「あるでー」というわけで最後の100円を飴湯に使い、とうとう一文無しで天王寺駅前に立っていた。自衛隊の勧誘に応じるかタコ部屋に入るか迷ったが、タコ部屋にした。ひと月いて小学校をひとつ建てた。タコ部屋には淡路島から両親が死んだので来たという本来なら中学生の男の子もいた。食事は薄い味噌汁とご飯だけだった。数人が逃げる相談をしていたが、電車賃もないので傍観していたが、口止め料として500円もらった。ある日、免許を取らしてやるから天王寺と飯場の送り迎えせえへんか、朝送ったらあとは夕方まで喫茶店で競馬でもやっとったらええやん、といわれた。それで同意したふりをして天王寺まで車で行き、着いたらダッシュして逃げた。ひと駅分買って、キセルで実家のある四国の松山に辿り着いた。知り合いの店に行き、オンリー・ワンズの新作LP《Even Serpents Shine》をかけてもらった。1曲目の《From Here to Eternity》に「蛇さえも輝く」という歌詞があることを知っていた。それは相方が教えてくれたのだった。そのころは裏切ることが美学だったので恨む気持ちはあまりなかったが、それはずっと不吉な曲であり続けた。不吉な曲に守られるというのは変な話だが、ぼくが女に手を挙げるということがないのは、どん底にその曲があるからだと思う。曲が、ぼくの代わりに世界に復讐しているのだ。そして、だからたまに、あのまま釜ヶ崎にいるぼくが串カツ屋で競馬新聞をチェックしているような気になるのだ。(寄稿者の許可を得て原文のまま使用した)

子どもたちへのテクスト
この歌は、社会の底辺から抜け出ようとして抜けられない宿命のようなイギリスの下層のありふれた情景を扱っていますが、なぜか希望についても語っています。自分のせいでだめになってしまった女のひとに責任を感じ、彼女が元にはもどれないことを知ってはいますが、彼女を連れてここから一緒に永遠に向けて抜けだそう、という切迫感に満ちています。《From Here to Eternity(ここから永遠に)》というのは映画化もされたジェームズ・ジョーンズの小説で、真珠湾攻撃の前夜のアメリカ軍の腐敗と過酷さを描いたものでしたが、主人公は最後に射殺されてしまいます。それが暗示しているように、この歌の希望も、永遠というのは、死のことであるとも読めて、悲劇に終わる予感がします。むしろ、「蛇さえも輝く」といったフレーズで示されているのは、そうした境遇のなかで幻視した、偽りであるかもしれない光に、一瞬身をゆだねる耽美であるのかもしれません。この曲は、芸術的には、デカダンス(退廃)の系譜に属するもので、二十歳のときに、そこから出発した体験が、それ以後の表現の原点のようにしてここに選ばれている、というところでしょうか。節回しが母音によってうまく配列されているので、すぐには歌えないと思いますが、慣れてくると、音韻そのものが転がる詩としての美しさを味わうことができます。
これは練習できなかったからぼくが歌うので、みなさんはクラゲになったつもりで適当に踊っててください。ぼくが近づいてきたら、クラゲが魚を避けるようにふらふらとしながら、少しだけ遠ざかります。


●《ローズ》、ベット・ミドラー

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者は鬱病によって家族から離れていたさい、この曲を繰り返し聞き、そして口ずさんだ。病状が悪いときはいっさいの音を受け付けなかったが、そこを乗り越えたとき、この曲が耳にとまった。その歌詞の「すばらしさ」と、「静かで力強い」メロディは、「暗闇に響く賛美歌」のようだとたとえる。寄稿者にとってこの曲は、今なお「祈りそのもの」である。
以下は歌詞。

Some say love it is a river 人は言う 愛は川で
That drowns the tender reed ひ弱な葦を押し流すと
Some say love it is a razor 人は言う 愛はカミソリで
That leaves your soul to bleed 心にいつまでも血を流させると
Some say love it is a hunger 人は言う 愛は飢えだと
An endless aching need 終わりのない渇望だと
I say love it is a flower でも 私には愛は花
And you its only seed あなたはただその種

When the night has been too lonely 夜が寂しすぎる時
And the road has been too long そして道が遠すぎる時
And you think that love is only あなたは思う 愛はただ
For the lucky and the strong 運がいい人たち 強い人たちだけが得るものだ
Just remember in the winter でも思い出して 冬の最中に
Far beneath the bitter snows 苦い雪の下に
Lies the seed that with the sun’s love 太陽の愛を含んだ種があって
In the spring becomes the rose 春にはバラを咲かすことを

子どもたちへのテクスト
曲を聞いて、いい曲だなあと思わないひとはいないと思います。英語もゆっくりだし、もうすでに歌っている自分たちを想像できる気さえします。 でもちょっと待ってください。このプロジェクトは、音楽会ではありません。音楽についての劇なのです。何かについて階段ひとつ高いところから考えるようなやり方を、「メタ」といいます。だからこれは、「メタ」な合唱なのです。
このテクストを書いたひとは鬱病でした。みなさんは鬱のひとに接したことがありますか。鬱のひとは自分を責めたり、他人を責めたりしますが、それは病気なので気を悪くしてはいけません。そして治りかけたころに元気が出て、かえって自殺する元気さえ出てしまって、死んでしまったひとをたくさん知っています。だから、鬱というのは自殺する元気さえなくなるような大変な病なのです。そんな状態にあるとき、このひとにとって、音楽はなんの役にも立たないどころか、音を聞くことさえできませんでした。そんな時期を耐えて、やっとはじめて「耳に入ってきた」のが、この曲だったというのです。そしてこの曲は、当時もいまも、自分の「祈りそのもの」だ、とこのひとはいっています。
歌詞に出てくる「種」、という言葉を手掛かりに考えてみましょう。
このひとの回復にとって重要だったのは、この曲そのものではなくて、「音楽が聞ける状態」であるということがわかります。つまり、生きている以上、このひとの生存にとっては、音楽よりも、身体のほうが優先順位としてはいつも上にくるのです。そして、この音楽が「祈りそのもの」だ、という言い方から、逆に、「祈れないこと」と「音楽が聞けないこと」は、似ている、ということもできます。このひとは、深い淵にいるような状態のときにも、身体は受けつけなくても、音楽を、聞けるものなら聞きたい、と心の底では思っていたと思います。音楽は、口に出せない祈りのようにして、まだ発芽していない種のように、このひとの心のなかで眠っていました。だから、音楽を「聞けないこと」そのもののなかに、ほんとうは音楽の種は含まれていたのです。そして、ある程度回復して、その種の発芽を身体が許したときに、その種から芽がでて、それが、繰り返すけれど、「発芽するようにして耳に入ってきた」わけです。このひとの心に種のようにして蒔かれ、発芽を待っていた音楽は、口に出せない祈りのようにして、いわばふさわしい時期がくるまでクマムシ(興味のあるひとは調べること)みたいにフリーズ(凍結)していたのです。
そう考えると、祈ることそのものよりも、祈れたことのほうが、あるいは音楽そのものよりも、音楽を「聞けた」ことのほうが、このひとにとっては重要な回復の里程標(目印になるもの)だったのだ、という言い方ができます。「聞ける」状態にあることそのものが、このひとの身体にとっては「ウォール(自分を守る壁)」 になっているのだ、ということにこのひとは気づいたのです。口に出せない祈りが誰かに聞いてもらえている、というような確信を希望というのだとしたら、このひとの魂(体と心)は、鬱のときにも希望を捨てなかったのです。
こんなことをいうのは、鬱というのが大変に難しい病気だからで、鬱のことをひとたび考えはじめると、ひとの生死がかかわるだけに、深く分け入って慎重に考えざるをえません。
そんな曲を、どういうふうに合唱したらいいでしょうか。ただ歌うだけだと、いい曲だね、病気が治ってよかったね、ということになるわけですが、このプロジェクトは、音楽が、そのひとにとってどう「プロテクション(守り)」になったか、ということだけに焦点を当てます。それで、音楽が種だったというさっきの考え方からいうと、発芽してしまう直前までが、真の音楽の役割だった、という言い方ができると思うのです。
合唱隊は仮に鬱ということにします(すでに鬱のひとがいたらごめんなさい)。自殺する元気が出る(ストレートな物言いでごめんなさい)くらいのところまで回復が進んで、「やっと音楽が聞こえてきた!」とひとりがいいます。そしてこの曲の出だしのワンフレーズだけを歌います。曲名当てクイズみたいにならないようにするために、すこし原曲を流してもいいです。そうすれば聞こえてくるべきだった歌は、各自の頭のなかで流れはじめるでしょう。そしてあとは、わたしたちすべてにとって、回復した凡庸な感謝すべき日常がはじまるわけです。


●《小さな願い》、ディオンヌ・ワーウィック

「選曲理由のテクスト」の要約
このテクストは、『ウォール・オブ・サウンド』の演出家であるティム・エッチェルス氏への私信のかたちをとっている。
寄稿者は南欧の漁師町に住んでいて、そこへ3人のフランス人女性の友人たちが、それぞれ夫婦・家庭問題、経済問題、健康問題などを抱えつつも、つかのまのバカンスを楽しむために集まったことから手紙は始まる。昼間は海で遊び、日が落ちるとめかしこんでバーやディスコにくりだす。その帰り道、車中のラジオからディオンヌ・ワーウィックの《小さな願い》が流れだす。寄稿者はこの曲を二十歳のころ、小さなアパートの部屋でレコードが擦り切れるほど針を落としたことを思い出す。しかしラジオから流れるのはそのレコードの音源ではなく、ディオンヌが歳をとってからのものだった。寄稿者はその「別人のような」声の変化に、ディオンヌに訪れたであろう女としての人生の喜びや悲しみを見る。と同時に、いつのまにかその曲の合唱に興じる、この日集まった4人全員の女の人生にも思いをはせる。彼女たちの人生のさまざまな場面で、この曲が流れていたのだろうかと。
4人のバカンスは誰ひとり自身の苦境を語ることなく、ただ楽しいままに終わり、寄稿者は、心なしかみなの顔に「明かりが灯った」ように感じる。そしてこの《小さな願い》は、4人の女たちにとってこの夏の記憶とともに生涯忘れられない1曲となったと、寄稿者は感じる。

子どもたちへのテクスト
グローバル化という言葉を聞いたことがありますか? この星の上で、みんなが同じようなファストフードを食べ、同じような音楽を聞いている、いまの世の中の様子のことです。まず気づくのは、その音楽のグローバル化が、このテクストに現れているということです。ポルトガルに集まった、いろんな国籍の、年齢の違う4人の女のひとたちが、ラジオから流れてきたこの曲を、それぞれ別の時代に別の場所で聞いて覚えていて、一緒に口ずさんだ、というのです。考えてみると、これはとても奇妙なことです。この星にはいろんな国や民族が住んでいるのに、なぜそうなってしまったのでしょうか。それは、いまの世界がひとにぎりのお金持ちを中心にした、「後期資本主義」の時代だからです。それはあとで興味があるひとは調べてみるといいでしょう。まあ、とにかく、作曲者のバート・バカラックというアメリカ人は、みんなに好かれるメロディをどんどん思いつくひとだったんですね。曲を聞くと、トランペットの明るい音色が、お小遣いのあるとき、モールでショッピングしているみたいに軽いのに気づくでしょう。お金のあるときは、とてもたのしいものです。でもないときは暗くなります。すいません。愚痴になりました。
このテクストを読んで、もうひとつ気づいたことがあります。この歌を歌っているディオンヌ・ワーウィックというひとは、いまはもうおばあさんなのです。若いころにこの曲がヒットしたのですが、いまでも歌っているのです。ラジオから流れてきたのは、いまの彼女の声だったんです。レコード盤のなかの彼女の声は、永遠に凍結された若さを保っていますが、この曲自体は、消費され、ディオンヌ・ワーウィックとともに、ひとのように老いていきました。お金も老いていく、という考え方があるんですよ。貯めておくと、価値が減っていくので、早く近所で使おうとするために、地域にお金が回るしくみになっているんだそうです。話がそれましたね。
4人の「女たち」、ぼくは女のひとが「女たち」っていう言葉を使うと、元気なおばさんたちに囲まれて圧倒されているような気分になります。これも余計なはなし。えーと、そう、4人の女のひとたちは、ラジオから流れる老いたディオンヌの声を聞いて、昔の若い声と対比させることで、自分たちの「老い」も同時に受け入れる心境になったに違いありません。「あたしたちも歳とったわよねー」とかいっている光景が目に浮かびます。
音楽の役割について考えているわけですから、ここでまとめてみると、この曲は、
1. 米英主導のポップソングとしての音楽は、世界を単一の経済的なシステムで覆うのに一役買っている
2. 老化するポップソングという考え方をとるならば、音楽は、ひとの「老い」を計測するメジャー(物差し)のような役割もはたしている
3. それでも、そのポップソングは、世代や国籍の違うひとびとを、ある場所で結びつける「共同の手段」としてもちいるときに、「プロテクション」となりうる
ということになると思います。
では、わたしたちは、この曲にどんな新しい意味を付すことができるでしょうか。ひとつの提案ですが、もしできるのなら、自分が老人になったつもりで歌ってみる、というのはどうでしょうか。老人のように、腰を曲げ、老いた声で歌おうとしてみるなら、「歌も歳をとっていく」という考え方を表現できます。そして、若いころからこの世界を見てきたけれど、良くなったのかしら、みたいな顔をして歌えば、おとなは身につまされるでしょう、きっと。
ギターを弾きたいひとは、順番にギターを弾きます。あとのひとはおばあさんになって、腰を曲げて、「Forever, forever,」とか「Toghether, toghether,」という部分をしわがれ声で歌います。


●《厳しい人生》(ミュージカル『アニー』より)

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者はこの曲を10歳のころに「いっしょうけんめい」聞いていた。そのときの寄稿者が直面していたのは、「おとなになること」だった。

子どもたちへのテクスト
『アニー』のあらすじは読みましたか? このひとは、「おとなになることに直面」していた10歳のころに、この曲を聞いていました。このひとは、この曲を聞いて、おとなになる準備をしていたのでしょうか? でもこれは「おとながつくった子どもの歌」です。このひとは、「おとなのつくったおとなの歌」を聞いておとなになるための予習をしたのではなく、「おとながつくった子どもの歌」を聞いて、ただおとなになる不安をアニーと共有したのでしょう。つまり、「おとなって、こういうふうに子どもを見ているのか」ということがわかるから、この曲を聞いていた、といえるのです。ずいぶん醒めた、おとなびた子だったのかもしれませんし、そうならないために一生懸命なにかを探していた子だったのかもしれません。ミュージカルの子役は、「おとながつくった子どものイメージ」を演じなければなりせんから、みなさんも、いまいっていることがわかるかもしれない、と思ったんですけどどうですか。
いずれにせよ、このひとは、自分が直面している問題にたいして、前もって禍(わざわい)を避け、経験のないなりに賢くありたいと願って、「子ども」が主題になっているミュージカルのこの曲を、レインコートのように「着てみた」んじゃないかと思います。
音楽に、期待をこめて、なにかをする、つまり選んで聞きこんでみる。音楽に、なにか、解決の糸口のようなものを求める。このひとは積極的にそうしてみました。でもなにが得られたかは、述べられていません。

今回、「おとながつくった子どもの歌」を子どもが歌うのは、このテクストの主旨(いいたいこと)にそぐわないと思いました。アニーみたいな子どもたちが、「子どもがつくったおとなの歌」を歌うならいいんですが。
だから、この曲は、おとなが歌ってみようと思います。おとなになりたかったおとなや、おとなになりたくなかったおとなが、自分たちの「プロテクション」のために、「おとながつくった子どもの歌」を歌って、みなさんに、おとなになることについて感想を聞きます。別に、答えなくてもかまいませんけど。
みなさんは、将来、おとなになったとき、「おとながつくったおとなの歌」、あるいは「おとながつくった子どもの歌」のような作品をつくるでしょうか。それとも、いつまでも「子どもがつくったおとなの歌」のような歌を歌えるでしょうか。でもたしかなことは、「子どもがつくった子どもの歌」は、いましか歌えないということ、そして、いまは子どもであってもおとなであっても、「It’s hard knock time(人生は厳しい!)」ということなんです。

経過と評判
「おとなアニー」は、「おとながつくった子どもの歌」を孤児の視点から歌うこと(あるいは歌えないこと)、にこだわり、歌詞を意訳して、自主稽古を重ね、最終日には全員衣装を揃えてどうにかミュージカルの格好になった。「子ども」が「子ども」に「夢を見るなよ、お前はみなしご!」と怒鳴るシーンを、子どもたちは体育館坐りで眺めたのだった。本番中、前夜「アニー」役と知り合ったホームレスが彼女を応援にきてくれた。主催がかれを排除していたら、準備過程で交わした、人生の四季を弄る狂ったヘルダーリンみたいですね、といった言説がすべてパーになるところだった。子どもからの感想は聞けなかったが、伝言ゲームとしては、このひとのテクストからは思いもよらない地点に達したかもしれない。


●《故郷を離るる歌》(原曲:ドイツ民謡 作詞:中丸一昌)

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者はこの『ウォール・オブ・サウンド』の問いかけを考えるにあたって、母親の闘病生活を思い出す。その末期には、意識はなく、流動食も摂れないため点滴で生命を維持しているような状態だったが、そんなときに寄稿者は、ベッドサイドに座り、反応もない母の手をにぎりながらこの歌をうたった。寄稿者の母親は歌の好きなひとで、寄稿者が小学校高学年から中学生のころ、母親はよくうたいながら台所に立っていた。この《故郷を離るる歌》もそのころよくうたわれた歌だ。
寄稿者はこの歌を息苦しさとともに長いあいだ「封印」していたが、この『ウォール・オブ・サウンド』に取り上げることに決めた。それは娘が結婚することになったからだ。その娘は高校を卒業してから上京し、いまや故郷で暮らした年月より東京でのそれのほうが長くなった。そんな娘と故郷をつなぐ歌として、娘にこの歌を贈りたいという。いずれ故郷には寄稿者の親族は誰もいなくなるだろうが、かすかにつながりのある人はそこで日々を送り、そこでは遠い日にすれちがったのと同じ風が吹きつづけるだろう、との思いをもって。《故郷を離るる歌》の歌詞は故郷との別れをうたったものだが、寄稿者は最後の節の「ふるさとさらば」に、「またいつかね」の気持ちを読み取ろうとするとともに、娘には自分なりの「新しい故郷」を見つけてほしいと願う。

子どもたちへのテクスト
みなさんはNHKのラジオを聞くことがありますか。『昼のいこい』とか『ラジオ深夜便』とか、おとなのひとたちが「お便り」を読んだりしているやつです。なんとなくまじめでつまんなくて、でもしんみりしていますよね。「おとなになったら、こういう感じ、わかるかなあ」とか思っていますか。わかんなくてもいいですけどね。まあ、たいていわかってきますけど。このひとのテクストは、そんな、ふるさとからの手紙みたいです。
でも、音楽の役割、という観点からこの文章を読むと、興味深い点があります。このひとは、お母さんの亡くなったときのかなしい思い出とともに、この曲をいったん「封印」(この場合は、聞いたり歌ったりするのをやめること)しますが、娘さんの結婚のときにそれを正反対の意味でよみがえらせることを決意し、母親と自分と娘を、故郷を土台にして、ふたたび「つなごう」としています。
ここで、歌は、まるでいきもののように、自分で自分の意味を変え、このひとの人生の「プロテクション(守り)」の役割を買ってでてくれているかのようです。歌はそのようにして、歌いつがれていくものなのです。
この曲だけは、このひとと、このひとのお母さんと、このひとの娘さんのために、敬意をもって、ふつうの合唱団のように、真っ当に歌います。真っ当に歌われる歌は真っ当なひとたちに真っ当に届きます。
NHKは、そんな、ふつうに生活している真っ当なひとたちがまだ日本にいるのだ、という幻想を持ち続けたいために、毎日「お便り」を読んであげているのでしょう。それはたしかに、真っ当な生活がまだすこしだけ残っていた、3.11前の日本の風景を思い起こさせます。

結果
子どもらのなかに、ショパンくらいに進んだ女の子がいた。彼女には音楽があった。彼女に指揮を勧めた。みな真っ当な合唱団のように整然と並び、彼女がタクトを上げる仕草とともに一斉に楽譜を胸の高さに上げる、という演出はうまくいった。学校の授業のように整斉として歌った。このテクストを書いた○○さんは、会場に見にきていて、たいそう喜んでいた、とあとで聞いた。


●《ラフィン・イン・リズム》、スリム・ゲイラード

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者はひとりの友人を紹介する。その友人とはある職場で出会い、お互いがこの《ラフィン・イン・リズム》を好んでいるという理由で意気投合した。友人は、職場で派遣切りに遭うが「労働組合を通じて満了していなかった契約期間分の支払い約100万円を手にする」もののあっさりと散財してしまったり、その後、職業安定所をつうじて得た正規雇用のチャンスも「サービス残業の拒否や放射能汚染に関する妥協のない発言」によってふいにしたりする人物として描かれる。しかし寄稿者はそれすらも、「狂った世界で正当な権利を不特定多数の無産者の名において主張することの倒錯について彼は充分に自覚的」とし、そしてそれが「自己正当化という形をとらず、ある種のユーモアを伴う律儀な実験的パフォーマンスとしていまでも継続」され、「心身ともに健康を保つことができている」ことを歓迎する。そしてそれはここで選ばれたようなジャズのおかげではないかと、寄稿者は考える。

演奏者から
スリム・ゲイラードに《アトミック・カクテル》という曲がある。カウント・ベイシーの、ジャケットがキノコ雲のアルバム《ベイシー》も、通称「アトミック・ベイシー」だ。「っはっはっはっは」といっているだけのこの曲は、「すごい」というような意味で「アトミック」という言葉が使われたころの一連のジャズの、50年代のアメリカの空元気を思い起こさせる(余談だが、サン・ラにも《ニュークリア・ウォー》というのがあった。これは反核ソングだけど。あと大木金太郎の《原爆頭突き》とかね)。『博士の異常な愛情』の最後の 「we’ll meet again」とかも奇妙にベイシー的な黄白色の明るさに満ちていた。わざわざ「歩いて職安に」という強調も、ジャズの、悲惨と隣合わせの明るさが、あとで出てくる9.11の《フニクリ フニクラ》の体験を歩行レベルから日常に引き延ばしていくような作用がある、ということなのだろう。そう思うとやれたらやるということにしておかないと辻褄が合わない。ジャズが放射能を笑い飛ばせるなら、の話だが。いや、放射能に「っはっはっはっは」といえないところからはじまって「っはっはっはっは」というのがジャズのジャズたるゆえんなのだ。

子どもたちへのテクスト
みなさんにはいい友だちがいますか。このひとは仲のいい友だちがいるようです。その友だちの人生は、「ある種のユーモアを伴う律儀な実験的なパフォーマンスの継続」なんだそうです。どういう意味かわかりますか。きっとなにがあっても笑い飛ばすようなおもしろいひとだということなのでしょう。会社を首になったり、遊んでお金を使ってしまったりしても平気なのです。ふたりはジャズからそのカラ元気をもらいました。きっと世界が滅びるまで、元気に生きていくでしょう(笑)。それは音楽の、とくに虐げられてきた黒人の音楽の、偉大なちからです。この曲は、ふたりが笑いながら歩いているように聞こえます。まずこのリズムを覚えましょう。そして、そのリズムに乗って歩きながら、「っはっはっはっは」、と笑ってみましょう。なにか思いついた駄洒落をいってもいいです。この曲は、それで完成です。そしてもし将来、なにかつらいことがあったら、このリズムで歩いて、「っはっはっはっは」、といってみましょう。そしたら、元気になるかもしれませんよ(っはっはっはっは)。


●《ザ・リバー》、ブルース・スプリングスティーン

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者が12歳のとき、その両親は離婚した。父親と別れるさい、父親は寄稿者にブルース・スプリングスティーンの『ザ・リバー』というレコードを与えた。寄稿者はこのアルバムと同名曲の《ザ・リバー》を繰り返し聞き、両親のことを考えては泣いた。3年後、両親はふたたび一緒になった。それは寄稿者にとって人生のなかでもっとも幸せな瞬間のひとつだった。寄稿者はこのことによって、この歌にたいして「決して愛をあきらめるな」という意味を付けくわえた。

子どもたちへのテクスト
みなさんにはお父さんとお母さんがいますか。いないひともいます。ほんとうの両親は別にいるか、亡くなっている、というひともいます。このひとの両親は離婚しました。子どもは、両親が仲良くしていてくれるのがいちばん幸せです。そうでないと、あんまりつらいので、それがトラウマになります。トラウマというのは、こころの奥の、自分では気づかない傷のことで、大きくなってから急に思い出してパニックになったり、からだの病気の症状として現れたりします。このひとのお父さんは、離婚するときに、この曲の入ったレコードをくれました。この曲は、結婚したころにふたりで川に行ったことを思い出して、経済的なことや、それにくっついてくるいろんなつらい状況になったいまでも、最初の愛を信じようとする男のひとの独白(ひとりごと)のような形式をとっています。このひとは、この歌を聞いて、「どんなことがあっても愛を信じる強さ」を与えられた、と書いています。そして3年後に思いがけず両親が復縁しました。それはかれにとって、人生でいちばんうれしかった出来事のひとつになりました。この歌には、「決して愛を諦めるな」という意味が付け加えられた、とかれは書いています。わたしたちも、こういう話を聞くと、ほんとうによかったね、とかれと一緒に喜びたくなります。それにしても、夫婦が一緒にいるのは当たり前なのに、こんなに離婚が多いのはなぜでしょうか。この経験は、そんな、両親がふたたび一緒になることがなかった子どもたちのかなしみも、同時に思い起こさせます。

この歌は、全部歌うのはむずかしいので、たぶんサビ(曲調が変わる部分)の、

We’d go down to the river
And into the river we’d dive
Oh down to the river we’d ride
というところだけを繰り返し、
最後に、
that sends me down to the river
though I know the river is dry
That sends me down to the river tonight
Down to the river
my baby and I

という終わりの部分を歌います。
川に行く、というのが、この歌の主人公にとって、最初の愛をたしかめ、愛を信じることを決してあきらめないという決意の表明になっています。子どもたちは、両親が、かれらの川にいつも戻って、愛をたしかめることを願っています。そうした気持ちで、歌うといいと思います。

感想
子どもらとサビだけ淡々と繰り返した。この子たちの両親は仲がいいかな、と思いながら。


●(曲なし)

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者はこれまでの人生のなかで自身をプロテクトしてくれた歌は思いつかないと語る。しかし「音」は助けてくれるかもしれないと考える。「音はひとを殺すこともできる」が、「ひとを助けることもでき」る、と。寄稿者はこの「パラドックス」を興味深いと考える。

子どもたちへのテクスト
このひとは、このプロジェクトについてずっと考え、できれば参加したいと思っていました。でも34年生きてきて、歌が自分を助けた、という経験がない、という結論に達したのです。
音そのものは、ひとを助けることも殺すこともできる、とこのひとは考えました。低周波というのをご存知ですか。それは橋を壊したり鉄砲のように壁をぶち抜いたりもできます。耳には聞こえないけれど若いひとの嫌う高い周波数(音の波)を店の前に流して、ヤンキーのひとたちがたむろするのを防いでいるコンビニもあるということです。犬にだけ聞こえる笛もありますし、音はいろいろな場面で活用されています。このひとも触れているように、地震を起こすHAARPという兵器さえあります。でも、音楽は、役に立たない、とこのひとは思っています。これは大事な考え方で、こういう考え方のひともいるんだ、ということを知るのはこのプロジェクトに関係するすべてのひとの益になるし、このプロジェクト自体の健全性を証するものとなります。 歌うべき歌がない、というのは真実かもしれません。どうしようもない災害に遭うとき、言葉も被災するからです。音楽も言葉も、基本的に絶対的な死の前には無力になります。無力ではないふりをする音楽や言葉をでっち上げるよりは、無力だと言い切ってしまったほうがなんだかせいせいして力がわいてきませんか。
たとえば、放射能に汚染された地域の農家のひとに、「がんばれ」と声をかけても、怒られるかもしれません。音楽をプレゼントしても、それどころではない、と突っぱねられるかもしれません。かける言葉のないひと、聞かせる音楽が思いつかないようなひとたちが世界にはたくさんいます。音楽で世界を救おうというような運動は、だから限界があります。命の危険に直面するような思いを共有しなければ、軽々しく同情したりしてはいけません。それはかえって、そのひとたちを傷つけることになります。
歌うべき歌がない、というこのひとの意見は、そうしたいまの日本の状況のことも、考えさせてくれます。
だからこのひとのテクストをとりあげて、わたしたちのやれることを考えてみたいと思います。
ならんで、合唱団のような体勢をとります。口をあけて、いまにも歌いだしそうにします。でも、歌いません。手や足や体で物音を立てるのはオーケーです。歌うべき歌がない、ということを全身で表現します。そこに、外からサイレンの音が聞こえてきたら最高です。空襲の爆撃の音が聞こえてきたら最悪ですけど。

結果
子どもたちは口をあけて、ずいぶん長いこと静止していた。観客が、わずかに動揺するのがわかった。


●《サマータイムブルース》、渡辺美里

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者は高校生のときに、好きだった女性が聞いているという理由でこの曲を聞くようになった。そして18年たった夏のある日、「いやいや」出張に向かう車中のラジオから偶然この曲が流れ、「わけもわからず」涙がこみあげた。音楽を聞くことはめっきり減ったが、「好きだった曲は忘れられないし、懐かしい気持ちを思い出させてくれ」ると語る。

子どもたちへのテクスト
このひとは、普段は音楽など聞かないひとです。30代なかば(みなさんのお父さんくらいでしょうか)になって、「嫌々出張に向かう車のなかで、ラジオから偶然この曲が流れるのを聞いて」18年前、高校生のころ好きだった女のひとを思い出して、「わけもわからず涙がこみあげてきた」といっていますね。音楽が好きではないのに、急に音楽がこのひとに侵入してきたかのようです。
この曲をみなさんはどう思いますか。いい曲だなあと考えるひともいるだろうし、ふつうの曲だ、たいしたことないじゃん、と見下すひともいるでしょう。恋にまつわる思い出の曲は、ほかの曲でもよかった、というケースがほとんどです。きっかけはたいてい、好きだったひとが聞いていたので好きになった、というだけで、音楽そのものを好きだったわけではないような気がします。
でも音楽のほうがそのひとのことを覚えていて、18年も経っているのに、急にそのひとのなかによみがえって、思い出とともにほんとうに胸をしめつけたのです。ほとんど音楽を聞かないというひとのいうことなので、かえって真実味があると思いませんか。それは興味深い現象ではないでしょうか。 この曲を歌うときは、ラジオの音が似合っています。だから、カラオケを録画して、PCに取りこんで、その画面を覗きこみながら歌ってみましょう。そのほうが楽だし、音が貧弱でラジオに近いからです。練習は、前もってyoutubeを見ながら、一緒に何回か歌っておけば大丈夫だと思います。この曲がいいなと思うひとは、一生懸命歌えばいいし、平凡だな、と思うひとは、ふうーんという感じで歌えばいいです。でも大事なのは、そんな曲が、みなさんのお父さんくらいの男のひとを泣かせた、ということを覚えておく、ということです。


●《星影の小径》、ちあきなおみ

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者は、「ずいぶん昔」に恋人とひんぱんに真夜中の街を彷徨した。金もないので散歩ぐらいしか楽しみがなかったからだ。寄稿者はこの曲を聞くと当時のことを思い出すと書き、最後にその恋人は「もうこの世のひとではありません」と告げる。

子どもたちへのテクスト
このひとは、匿名(とくめい)希望なのです。音楽の役割とはなんでしょうか。それは、音楽が、匿名性(名前を伏せること)を要求してまであるリアルな実体を物語ろうとするときの、そのひとの動機付けとなることです。それによって、そのひとの個人的な物語は普遍化(個人的の反対で、みんなが自分のことのように思えるようになること)します。
ふたりは真夜中の街を散歩しながら、いろんなことを話し合ったでしょう。「じっとして じっとして」というところを歌いながら、「じーっとしてるだけっていいと思わない?」「そうだね」とかいって変てこな遊びをしたかもしれません(まったくの妄想ですけど)。 わたしたちは、ふたりが夜道を歩いているところを想像して、歩きながら歌います。この歌のなかの夜風はそんなに冷たくないかもしれません。アカシアの花が咲くのは初夏だからです。
そんなふうに思って歌うと、この物語はもう、このひとといまはこの世にいないこのひとの恋人の話ではなくなります。真夜中の街を歩いているのはわたしたちです。

やってみた感想
2重唱にしたが、難しかったので「アイラブユー アイラブユー」のところだけ練習した。そこはきれいにハモれた。


●《人生よありがとう》、メルセデス・ソーサ

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者は大学卒業後アルゼンチンを訪れ、そこでメルセデス・ソーサのベスト盤を買う。そのときのアルゼンチンは軍事政権が終わってから1000日めにあたる時期で、ブエノスアイレスは新しい政権を迎え、そして自由を手にした喜びに満ちあふれていた。寄稿者は帰国後もその興奮は冷めず、そのベスト盤を繰り返し聞いた。
寄稿者にはその後、恋人ができる。そして、「ぼく」と「かれ」という主語によって、その恋が同性愛であることも告げる。恋人もソーサの大ファンであり、ふたりはほかのラテンアメリカ音楽を一緒に聞きながら多くのときをすごした。しかしその恋は長続きしなかった。寄稿者は深く傷つき、プールで「ひとかきごとにかれの名前を呼びながら、この歌を歌いながら」なん往復も泳いだ。
寄稿者はいまだに、この《人生よありがとう》の「人生よ、こんなにも多くを与えてくれてありがとう。白と黒を、夜空の星を、群衆のなかにわたしの愛する男を見分けることのできるこの両の目を、与えてくれてありがとう」という節を無意識に口ずさむ。この歌は寄稿者の「空っぽな心を満たし」、かつての恋人や当時のアルゼンチンの「自由と生に溢れた活気」を思い出させてくれる。そして、「生きていくために必要な勇気を与えてくれる」。

子どもたちへのテクスト
みなさんは同性愛、あるいは性同一性障害、トランスジェンダーと呼ばれるひとびとのことを知っていると思います。同性同士の結婚を認めている国もあれば、禁止している国もあります。そのひとたちは生まれつきそうなのでしょうか。それとも生まれてからの環境がそうさせたのでしょうか。いろいろな意見があるし、同性愛者のなかにもいろいろなひとびとがいます。ひとつだけいえるのは、そのひとたちは差別されてはいけないこと、そして、ぼくの知る限りそうしたひとびとの多くが自分に正直で、純粋で、しばしば知的で創造的だということです。人間は本来男女が結婚するように造られていましたが、人間のつくった社会全体が健全な状態にないいまは、生まれる前や生まれたあとからの、いろいろなありさまが見られるのは仕方がないことで、さまざまな立場のひとが互いを受け入れていかなければならない、というのがぼくの考えです。
このひとは、アルゼンチンでの経験と、このひとの恋愛、そしてこの曲が結びついている、という美しいテクスト(文章)を書きました。テクスト全体に、ある種の透明なかなしみが感じられます。この歌の「人生よ、ありがとう(¡Gracias a la vida!)」というメッセージが、このひとの人生と結びついているありさまは、決してふつうの感慨からくるものではありません。このひとは純粋にかなしいのです。
だから、「人生よ、ありがとう、という歌詞は、震災からの復興を励ますのにいいですね」といったありきたりの言い方は、ちょっと違う気がします。これは津波からの復興ではありません。なぜなら、そうした「がんばれ日本」といった言葉には、原発事故からの復興の不可能性の視点がないからです。 このひとは、自分がゲイであることをカミングアウト(告白)するひと特有の美しさで、口ずさんでいた歌が不意に腑に落ちる瞬間のことを描写しています。「¡Gracias a la vida!」と「一かきごとに」つぶやきながら疲れきるまで泳ぎます。音楽は「空っぽ」な気分のときにかれを満たしてくれますし、「かつて愛したひとのことや、20年以上前のアルゼンチンの自由と生に溢れた活気を思い出させてくれます」。昔のことを思い出して溺れそうになることを、「ノスタルジー」といいます。
歌が新たな意味を帯びるようになる、という経験は、「ウォール(壁)」と思っていたもののなかに、さらに「ウォール」があったことを知るようで、その体験は深みを帯びて響きます。愛の復興が、ノスタルジアの津波に呑まれる瞬間です。それは放射能より強い愛です。むずかしく書いてしまってすみません。みなさんは、「¡Gracias a la vida!」と歌えたら、それでいいと思います。

感想
本番では1音だけどうしてもギターで出したい音があり、それが弾けてよかった。


●《化粧》、中島みゆき

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者はインターンシップのためにイギリスに滞在した。そのとき、自身のあるべき姿と現実の自分とのギャップや、プレッシャーや虚無感、または自身の「無能さ」、そして孤独など、さまざまな感情を体験する。そんなときに「馬鹿だな」と思いつつも日本の歌を聞き、「涙スイッチ」を押して「リフレッシュしていた」。

子どもたちへのテクスト
みなさんは外国に行ったことがありますか。このひとはロンドンにいるときに、この歌が役立った、といいます。ほんとうはそんなに不幸ではなかったかもしれませんが、自分のことを「馬鹿だな、馬鹿だな」と「追いこんで」、異国の心細さのなかで「リフレッシュ」していた、というのです。中島みゆきさんは、この歌では感情をさらけ出しきってしまう歌い方をしていて、それが多くの女のひとには「無理矢理涙スイッチを押す」のにいいみたいなのです。もっとも、ほんとうに失恋したひとにはたまらなく悲しい歌であることは間違いありません。失恋してないひとでも、そんなふうに自分がなっている気にさせます。ぼくもいま聞いていて、とてもかなしい気分です。
自分を小さく見せることを「自分を矮小化(わいしょうか)する」といいます。このひとは、わざと自分を矮小化して、異国の地で、理想と現実のギャップ(差)に悩む自分を守ろうとしたのです。音楽は壁になりました。それは、日本食を食べるようなものだったかもしれません。そして、「30歳をすぎてもナイーブな自分を発見してびっくりした」とあるとおり、こういう歌を聞いて素直に泣ける自分に驚きもしているのです。

歌い方の案として、その「矮小化」を表現する、ということを考えました。みなさんはまだ大失恋をしたことがないでしょうから(わかりませんけど)、悲しいふりをするのです。そして自分を小さく見せるために、うずくまります。歌というのは、なかなか五線譜に書けるものではありません。そのときの気分で、音程は揺れます。声が裏返ってもかまいません。うずくまった状態で、どこまで悲しく歌えるか、ためしてみてください。でも、笑ってしまってはいけません。ほんとうに失恋したひとがかわいそうですからね。

練習とその結果
みんな失恋したことある? と聞いてみた。「なーい」「ふったことはあるけど」という答えだった。中島みゆき知ってる? 「知らなーい」。お母さんは知ってた? 「知らないっていってた」。本番でも子どもたちは一切泣きの情感を交えずにほそぼそと歌った。このひとは実際に観にきてくれていて、あとで、「これで吹っ切れました」と感想を述べてみせた。


●《ナンバー・ワン・エネミー》、ザ・スリッツ

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者は派遣切りに遭い、労働争議を起こす。そのときの雇用者側の交渉役の「世慣れた態度」「洗練された印象」は、「軋轢を生み出すことの不寛容さを遠回しに反省させるもの」として、寄稿者を不安にさせる。しかし、「しかるべき相手にたいして決然と敵対することの晴れがましさを歌ったこの曲が頭をよぎ」る。交渉の結末は書かれないが、「この歌の愚かさと野蛮さが、偽りの和解からわたしたちを守ってくれた」と結ぶ。

演奏者から
音楽には2種類しかない。スリッツ的なものとレインコーツ的なものだ。音楽の秘密にかかわるのは後者のみである。スリッツ的なものはプッシー・ライオットに引き継がれていく。運動関係者に求められているのは、実はレインコーツ的なリズムのずれなのだ。それこそが真の革命である。それをわかって聞くなら、スリッツはひとつの「ウォール」となりえる。このひとにとってスリッツは反抗の気分をキープするためのツールとなった。ざらざらした音楽がかれの闘争を助けた。野蛮さが「プロテクション」になる、という事実に注意を向けたことで、単なる癒しを音楽に求める先入主と一線を画するもので、評価できる。小学生にフォーレターを叫ばせたいか、ということにもなるが。

子どもたちへのテクスト
このひとは「派遣切り」というものにあって、会社とけんかをしました。「派遣」というのは、正式な会社員ではないけれど、一時的にアルバイトで雇ってもらっているひとびとのことで、正社員が受けるさまざまな福祉を受けられません。会社は、「正社員」を雇うより、「派遣」を雇ったほうが儲かるのでそうしているのですが、景気が悪くなると「派遣」のひとだけ辞めさせようとします。それで、このひとは、辞めさせられそうになったとき、「それは不公平だ」といって、会社のえらいひとに文句をいったのです。なぜならお金をもらえないと生活に困るからです。これを「労働争議」といいます。そのとき、会社の対応はとても「世慣れていて」、「洗練されていて」、「エレガント」だった、とこのひとは書いています。エレガント、というのはとても礼儀正しく、上品なさまをいいます。それでこのひとは、文句をいった自分が悪いような気がしてきました。でもそのとき、この曲が頭をよぎった、とこのひとはいっています。それは、「偽りの和解」から自分を守るものとなった、というのです。
なぜ会社のいうことをきくと、「偽りの和解」になるのでしょうか。学校や会社のいうことを聞いていると、社会は円滑に、つまりなめらかに、波風が立たないふうにして、進んでいきますが、それはうわべだけで、辞めさせられた派遣のひとは、お金がなくて、しょうがなくてホームレス(家のないひと)になったり、自殺したりしてしまいます(積極的にホームレスになるひともいますけどね)。そういう社会をそのままにしておくと、社会が間違った方向に行ってしまったとき、原発事故のように、元にもどれなくなります。だから、自分が正しいと思ったことは、はっきりといわなければならないときもあるということです。おかしいと思ったことを、はっきりいわないと、みなさんも、困っているひとたちのことを思いやれないおとなになってしまいますよ。ということで、なにかをはっきりいいたいとき、役に立った歌、自分の背中を押すような応援の歌がスリッツのこの曲だった、とこのひとはいっているのです。スリッツというのはイギリスの70年代のパンクの、女の子たちのバンドです。スリッツは失業だらけの当時のイギリスの社会にたいして、黙ってなんかいませんでした。堂々と文句をいったので、若いひとたちの支持を集めました。そういうひとたちはいまでもいます。たとえば、ロシアの女の子のバンド「プッシー・ライオット」は、プーチン政権を批判したので牢屋に入れられてしまいましたが、世界中のひとが心配して、ロシア政府に文句をいっています。
みなさんは、こうした反抗や、いま全国でおこなわれている反原発のデモをどう思いますか。もっとおしとやかなやり方がある、と思いますか。自分ならどうしたいですか。目上のひとには敬意を持たなければならないけれど、自分の命が危険になったら、やはり、なにかいわなくてはならないときもある、と思うのではないでしょうか。お金がすっかりなくなってしまって、家もなく、ご飯も食べられなくなったときのことを想像してください。そんなとき、「死にたくない!!」と叫ぶのを、政府はやめさせることはできません。
今回あげた動画は、2種類ありますが、歌詞もコード進行も全然違います。そのときの気分で、好きなように歌っているのです。いいたいことは、「わたしはあなたの敵だ」と決然と叫ぶところです。だから、
I’m going to be your Number one enemy
という繰り返しの部分だけを、女の子のパンク(フェミ・パンといいます。女の子は覚えておくといいです)になったつもりで、叫びます。
もし、そういう反抗は自分は好きではない、と思ったら、そのことをみんなの前で勇気をもって説明してください。これは、音楽ではなくて、はっきり意見をいうひとになる練習なのです。

結語に先んじた感想めいたノート
否定弁証法とは、否定命題に踏み留まり、絶対に止揚(否定の否定)しようとしないことだ。敵だ敵だと繰り返すスリッツのように。止揚しようとすると観念論となり、いつかは「投げだされてるんだよなあ」というような見方でナチの協力者となるというオチがつく。では否定弁証法とはただのジャズを嫌う頑固オヤジみたいなものになることなのか? いや、ジャズを嫌うアドルノはジャズによってジャズを超えようとかは思わない。アドルノにスリッツを歌わせたい。かれは音楽と思わないで、騒音のなかで語るなにかの収録だと思ってジャズは敵だ敵だとラップするだろう。2つの原則のあいだでこのひとはジグザグに進むが、「エレガントな」3つ目があることも知っている。知っていて踏みとどまる。それはただの頑固さではなく、しなやかな頑固さだ。


●《ムヂゲ(虹)》、サヌリム

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者は、「どうしようもない」ほどの孤独感を感じるとき、この歌の「きっと自分の知らないところから誰かが見守ってくれている」ような、「一種の希望の呪文のような歌詞」になぐさめられる。また同時に、「暖かくやさしく守られた過去の記憶」も呼び覚まされる。
以下は歌詞の一部。

きみが友達と一緒にいるのなら
見物人のように口笛を吹くから
みな消え去って寂しくなったら
きみの道連れになって歩くよ

子どもたちへのテクスト
韓国のロックを知っていますか。日本とは別の歩み方をして、グループサウンズ(日本の、西洋のロックをまねたバンド音楽)の時代からいきなり内容が深まったような、最近はやっていた「韓流」とはぜんぜん違う流れがあります。それは、朝鮮半島の3拍子の、騎馬民族(農業ではなく、馬に乗って牧畜で生活する中央アジアのひとびと)的な血が濃く流れているからだと思います。みなさんは竹島のことをどう思いますか。喧嘩して、取り合ったほうがいいと思いますか。それとも、互いの文化や歴史を深く理解して、敬意を持つことが大事だと思いませんか。
この曲を選んだひとは、この曲が、「希望の呪文のような歌詞で慰められる」、「暖かくやさしく守られた過去の記憶も呼び起こされたりもする」といっていますね。音楽が「プロテクション(守り)」になっているとてもいい経験です。歌詞をよく読むと、擬人化(物質だけれども人間であるかのように描写すること)された虹が、わたしたちに呼びかけている内容になっています。韓国の虹は、なんてやさしいのでしょう。困っているときは抱きしめてくれる、というのです。そして、友だちができたら、空から、よかったね、と口笛を吹いてくれます。友だちが去ってしまったら、一緒に歩いてくれる、と約束しています。韓国のロックは、こんなやさしい歌詞で満ちています。
みなさんは、なぜ国境があるのだと思いますか。虹に国境はありません。国境がなくなった世界を想像したことがありますか。いつかそうならないといけないと思いませんか。

この歌は、1番を韓国語で歌い、8小節の間奏のあと、日本語で歌ってみます。最後の部分は繰り返しがあります。それは両方で歌います。ぜひ、韓国語で歌えるようにチャレンジしてみてください。


●《フニクリ フニクラ》(ルイージ・デンツァ作曲 清野協、青木爽訳詞)あるいは《鬼のパンツはいいパンツ》(作詞者不詳)

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者は2001年9月11日に起きたニューヨークのワールド・トレード・センターへのテロに遭遇した。「モノが消え去る一瞬の目撃は、わたしからモノをつくることへの意欲を奪った」とある。そして、ハウストン・ストリートをはじめ、あらゆる場所で機関銃を構える兵士を見るが、そのとき、この《フニクリ フニクラ》の「鬼のパンツはいいパンツ 強いぞ~ 強いぞ~」が頭のなかで再生されたという。もちろん寄稿者が機関銃に勝てるわけはないが、なぜかこれをうたうと「アメリカン・アーミーには負けない気がした」。「怖いものや不安に対峙する勇気が生まれているのを確信」したのだ。《フニクリ フニクラ》はもともとヴェスヴィオ火山の登山電車のCMソングであり、それは世界最古のそれでもある。それゆえの「スーパーポジティヴ」さが、「不安や怯えを自覚してなお、から元気を装おってみる強さ」を寄稿者に与えることになった。
歌詞は以下。

あかい火を吹くあの山へ 登ろう 登ろう
そこは地獄の釜の中 のぞこう のぞこう
登山電車が出来たので 誰でも 登れる
流れる煙は招くよ みんなを みんなを
行こう行こう火の山へ  行こう行こう火の山へ
フニクリフニクラ フニクリフニクラ
誰ものる フニクリフニクラ

暗い夜空に赤々と 見えるよ 見えるよ
あれは火の山ベスビアス 火の山 火の山
登山電車が降りてくる ふもとへ ふもとへ
燃えるほのおは空に映え かがやく かがやく

鬼のパンツはいいパンツ つよいぞ つよいぞ
トラの毛皮でできている つよいぞ つよいぞ
5年はいてもやぶれない つよいぞ つよいぞ
10年はいてもやぶれない つよいぞ つよいぞ
はこうはこう 鬼のパンツ はこうはこう 鬼のパンツ
あなたも あなたも あなたも あなたも
みんなではこう 鬼のパンツ

子どもたちへのテクスト
2001年9月11日に、ニューヨークのワールド・トレード・センターに飛行機が突っこんだ映像を見たことがありますか。誰がなんのために突っこんだかはいまでもいろいろな説があります。とにかくアメリカはそれを戦争をはじめるきっかけにしました。このひとはその現場にいたのです。命からがら逃げているときに頭に浮かんだメロディがこの曲だったというのです。
この歌が、「あり得ないとわかっている希望を受け止め、から元気を装おってみる強さを与えてくれた」という表現に注目してください。みなさんは希望というものはある、とおとなに教えられているかもしれません。でも、現状では希望がないというところから出発する考えのほうが、正しい場合だってあるのです。命の危険にさらされたときのひとびとの考えには、余計なものがありません。そういう、口に出して祈ることさえできないようなぎりぎりの場所に立つと、ひとは、「食べて応援」といった言い方は変だな、とか自然にわかるようになります。

この歌はやさしそうに見えて、アクセントの位置がずれていくので、たいへん歌いにくい曲です。何回も聞いて、覚えるしかありません。完璧に歌えるようになったら、ひとつ提案があります。
極限状況にいる自分を想像してみてください。みんなが口を押さえて真っ黒な顔で逃げています。倒れているひともいます。機関銃を持った兵士もいます。そんななかで、この歌が浮かんできたらどう歌うといいでしょうか。みんなでよろよろ駆けずりまわって、てんでんばらばらに歌うのです。それも、「おにー のパンツはいいパンツ つよいぞー つよいぞー」、とか、「行こう行こう火の山へ」とか、断片的なフレーズを選んで、適当に、うろ覚えのようにして繰り返すのです。そして、それが、このひとにたしかに勇気を与えたんだな、というのを実感すると、希望のないひとにも逃げる勇気を与える、音楽のやさしい「プロテクション(守り)」の役割が見えてくるし、それが聞いているひとたちに希望を与えるでしょう。


●《シー・オブ・ラヴ》

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者は、22年ともに暮らした猫を失った。その最後の5日間を描写する。1日めは点滴を受けてまだすやすやと眠っている。2日めもスポイトで水や牛乳を飲んでいる。3日めは脚が曲がらなくなり、マッサージをしてあげた。4日めには大声で1時間も鳴いた。5日めは吐血し、お互い血だらけになりながら心臓マッサージをした。動かなくなっていた後ろ脚が「ぱたぱたっと駈けるような動きをした」り、「飛び上がるような動きをした」りして、息を引き取った。

演奏者から
この曲は知っている。オールディーズだ。

Come with me, my love
To the sea, the sea of love
I want to tell you how much I love you

Do you remember when we met
That’s the day I knew you were my pet
I want to tell you how much I love you

フィル・フィリップスはwannaなどという俗な言い方をせずに、ちゃんとwant toと歌っているのが50年代を感じさせる。Petというのは動物のことではもちろんなくて、ダーリンというほどの意味だが、猫が死んだのだから、この曲が取り上げられている意味は単純明白だ。ただ、最初、このテクストにはアーティストの名前がなかったので、これはひとつの謎かけだと受け止めた。最初はオリジナルだと思っていたが、ワインのテイスティングと同じで、このテクストからはフィル・フィリップスが立ち昇らない。
この曲はいろんなひとが歌っている。ロバート・プラントとジミー・ペイジのカバーはすこしも楽しくなくて、アドルノ風に否定的にいえば、俗な業界にたいするメタな居直りの狂気を感じさせるし、トム・ウェイツは案の定というかthe dayをthe nightに変えてすこしいやらしくさせているが、どれも違う。この場面で流れていたのはきっと、そう、キャット・パワーだ(あとで本人にたしかめたら当たっていた)。
ショーン・マーシャルは、愛する者を失くしたときの特有の遅延を、サビさえ排した単純な4つのコードのループのためにチューニングしたオートハープで最後までキープし続けている。
猫は人間より上に来るので厄介だ。やるしかないじゃないか。愛猫の死は、ある面、原発事故や親族の死よりも大事件で、それを認めさせてしまうのが猫というものなのだ、といった外野の批判から免れているためにはなにが必要かをこのひとはわかっていて、計算ずくでこの主語のないテクストを書いている。主語は感覚するのみで反応できないイノセントな自分なのかもしれないし、猫かもしれないのだ。それは湾岸戦争で油まみれになった鳥の映像を見てそのイメージを飼い猫と重ねる自分を描いた大島弓子を思わせる。飼い主と猫とのそういう関係性そのものを合唱で表現してみようと思った。

子どもたちへのテクスト
かわいがっていた動物が死んでしまったことはありますか。このひとは22年間(長生きでしたね!)一緒に暮らした猫が死んでいったときに世話した最後の5日間のことを思い出しながら、「どのくらいあなたを愛していることか」というフレーズが繰り返されるこの曲を選びました。ところで、あるひとびとにとっては猫のほうが人間よりも大事になってしまいます。やっかいなのは、現実の世界では戦争や飢饉や疫病で、たくさんの子どもが死んでいることよりも、目の前の猫の死のほうが重大に思えてしまうことです。それは不自然ではないでしょうか。結論からいえば、どちらも重大なことなのです。わたしたちは、目の前の猫の死を見つめながら、同時に世界中で死んでいく人間のことも考えられるひとにならなくてはなりません。人間には動物を世話する責任があります。そして、地球をきれいに保つ責任もあるのです。でもペットはたくさん殺され、地球は汚染されています。そのために、わたしたちはなにができるでしょうか。このひとのように、目の前の愛する猫の死としっかり向き合っていなければなりません。このひとが、ほんとうはすごくかなしいのに、感情を表す言葉をいっさいもちいずに、冷静に猫の病状を描写しているのに気づきましたか。こういう書き方を、「叙事的(じょじてき)」な描写といいます。そういう書き方をして、「わたしは愛する者を亡くしたかなしみで、あなたの猫どころではないのです」と文句をいうひとがいないように気遣ってもいるわけです。世界中のかなしみが集まってきているような場所で、それでも、ほかにも苦しんでいるひとがいるんだ、ということも忘れていないということを示すために、その場所を密閉せず、いわば、ほかのひとの愛の風の通る隙間をつくってあげているのです。そうしないと、愛は利己的になってしまい、この猫さえ助かれば世界が滅びてもいいと思ったりするようになるかもしれません。
そういう歌をわたしたちはどう歌ったらいいと思いますか。そうです、「叙事的」に歌うのがよいのです。過度に感情をまじえず、すべてのものに通低する(当てはまる)ようにして、猫そのものに拘泥せず(その猫のことだけに気を取られず)、すべてのひとにとって訪れるであろう、「愛する者を亡くした悲しみ」を聞くひとが感じ取れるようにします。
ひとり、猫の代わりに横になっていてもいいかもしれません。そのひとは、いま歌われている猫であると同時に、世界中で死んでいく子どもでもあります。そうすれば、《シー・オブ・ラヴ》という曲は、単なるラブソングの域を超えて、愛する者を失ったひとの気持ちをわかろうとする表現になるかもしれません。
歌は、歌詞だけを見れば五線譜がなくても歌えると思います。むしろ、歌の最後の微妙な音程の揺れを練習してみてください。

練習の様子、その結末
ショーンは、原曲ではI knew you were my petとなっているところを、I knew you were mineと変えて歌っている。ここで、主人とペットの関係は逆転し、歌は、猫のほうがI wanna tell you how much I love youと主人を慰めているようにも聞こえてくる。それで、I wanna tell you how much I love you (あなたをどれだけ愛しているか、あなたに伝えたい)といっているのは、死んでゆく猫でもあるのだ、と気づかされた。歌をとおして、猫が飼い主にそう語りかけているのだ。だから、猫を増やし、飼い主と半々に分かれて歌うほうが良いと思えた。猫になった子は猫になったつもりで飼い主を見上げながら歌う。飼い主になった子も猫をみつめながら歌う。
オートハープのキラキラした高音が聞き取れるように、ギターのヘッドの弦の部分をピックで擦って高音を出す係を募ると、みなこぞってギターにさわりたがった。ギターにさわるひとは猫の役、というと、練習のときはみな猫になったのに、本番ではいちばん最初の曲だったということもあり、誰も恥かしがってやろうとしなかったので、結局ぼくひとりが猫になってごろんと転がり、みなを見上げてにゃあといった。
その日以来、ぼくはライヴでよくこの曲を歌う。


●《風雪ながれ旅》、北島三郎

「選曲理由のテクスト」の要約
寄稿者は父親を亡くした。それからしばらくは父親を思い出すものに「こころの準備なく」出会うと涙が出てしまう。《風雪ながれ旅》はその父親がカラオケでかならず歌っていた歌だ。時間がたつと、父親の「あまり上手でない歌いっぷり」が楽しい思い出として思い出されるので、「この曲があってよかった」と感じるようになった。

演奏者から
父と行ったのはボックスだったのか、スナックだったのか。娘は歌わなかったのだろうか、うなずき、拍手していたのだろうか。それは音楽的な話ではない。生活の範囲にかかわることだ。それは社交だったのか。こころに玉砂利を敷き詰めるようにして、礼節で世を耐えようとしたのか。演歌はこれ1曲だった。牡丹雪の降る店の外は飴のように寒い。

この投稿者に倣った「泣き笑い」の社交としての結語
こうしてそれぞれのテクストは、ティム・エッチェルスがさまざまなニュアンスで描写してみせた「皮肉なあるいはなんらかの形での助言としての音楽、逃走あるいは避難の手段としての音楽、気晴らしの手法としての音楽、そのなかで逸楽に耽る暗い空間としての音楽、励ましとしての音楽、自己定義の形式としての音楽、一言でいえば、自衛のための個人的な(あるいは共同の)手段としての音楽」というカテゴリーの陰翳のなかへわりと満遍なく沈んでゆこうとしているが、べつの階層では、通俗の氾濫のなかで選び取るのか選び取らされるのか、主体なのか客体なのか、という磁力線のなかに南北に配列されてゆく。そのなかで結局いちばん印象的だったのは、主体と客体の小競り合いの合間を縫うようにして飛行する音楽の自律的なふるまい、外部に於ける勝手な、あるいは主体の無意識の身体性の許可に基づくリトルネロ、とでもいうべきものだった。音の種は脳に眠っている。それはフーリエ変換というアルゴリズムを経て振動をデジタイズした値であって、波ではない。波の断面が数値化され、記録されているだけなのだ。それはオブジェとしてホログラム化できるものかもしれない。その彫刻は、ある場合、各人の「記憶」ではなく、「記録」によって造型されているようなのだ。その「記録」が自立的にふるまうのだ。それが勝手に脳内再生されて、ぼくらは泣く。記憶していないデータさえも脳に記録されていて、それがジェルソミーナのトランペットだったりするのだ。そして未来の声まで「記録」されていることだってもしかしたらあるのだ。ひとが音楽を選ぶ様子だけではなく、音楽が猫のようにひとを選んでいくさまを見ることができた、ということだ。そういうとき、音楽は、やはりひとより上にあるのだと思う。「音楽を救済」などというのは傲慢だった。まあ、どうせならいい猫に選ばれるにはどういう人間になっていなければならないのか考えよう、ということだ。伝言ゲームといってもそれはぼくの勝手な妄想なので、ずいぶん勝手なことを書いたことを前もってお詫びしておく。面識のあるひとは数人しかいなかった。To know him is to love himはミック・ファレンから教わった人生の大原則なので、本人を知っていればまったく違う文章になっていただろう。いつか会うことがあれば、叱ってください。作業に付き合い、いくつかの大事な点に気づかせてくれた国際舞台芸術交流センターの新井知行さんにもこの場を借りて感謝を述べておきたい。

子どもたちへの最後の手紙
みなさんは伝言ゲームというのを知ってますか。聞いたことをひとに伝えていくと、すこしずつ内容が変わっていって、最後は最初のひとの話とずいぶん違っていて可笑しい、というものです。わたしたちがやったのは音楽の伝言ゲームです。わたしたちは、「大変だったときに歌が助けになった」という話を聞き、それをほかのひとたちに、「このひとにとっては、歌がこんなふうに助けになったそうです」と伝えたのです。
それはずいぶんおかしなものだったに違いありません。でもそこで最初の文を書いたひとたち、わたしたち、見に来てくれたひとたちや家族、つまり関係したひとたち全員にいろんな思いやドラマが生まれました。そういうことを「コミュニケーション」といいます。ひとのあつまりというのはいいものです。そして音楽は、わたしたちをぎりぎりのところでつなぎます。ぼくはそういいたくてこの劇をはじめました。ほんとうにそういえるのかどうかは、自分で考えてください。いつか音楽そのものが虹のように助けにきてくれるでしょう。参加してくれて、ありがとう。


(終)


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