《存在とは何か》のためのテキスト Arbeitsjournal

サボテン
Arbeitsjournal
2025年1月20日更新

《存在とは何か》のためのテキスト
(2006年9月10日、文京区小石川図書館にて)


工藤冬里


※以下のテキストは、図音会の杉本卓也氏が工藤の説明を聞いたあとにテキストにしたものです。
(*1〜*4は、工藤による註)




1. perspective through headphones

 一般に、ステージ上の演奏者がギターを演奏する音は、ミキサーという機械にいちど送られます。ミキサーに入力されたギターの音は、いっぽうではミキサーから会場の音響装置(もしくはアンプ)に送られてから、会場に向けて出力されます。もういっぽうはヘッドフォン・アンプという機械に送られ、ステージ上の演奏者がつけたヘッドフォンから聞こえてきます。これは通常、何人かの演奏者が録音(レコーディング)をするときに、必要な人が必要とされる音だけをヘッドフォンで聴きながら演奏するために使われる機械です。このように、もともとはある音を演奏者全員が共有するために使われる機械なのですが、今回はある特定の2人だけが、おたがいの演奏する音だけを聴きながら(即興)演奏をする目的で使用されます。
 ミキサーについている音の大きさを変えるつまみを、ある任意の2人分だけ残し、ほかの人の音量を調節するつまみはゼロにしたうえで、ヘッドフォン・アンプに送ります。つまり、オペレーター(そのミキサーを操作する人)が任意で選んだ2人だけが、おたがいの演奏する音を聞くことができるようになるわけです。ミキサーには2つの独立した出力系統がありますので、会場にはすべての演奏者が出す音が聞こえています。しかし、ステージ上のヘッドフォンをつけた演奏者は、ほんらいおたがいの音をよく聞くためにヘッドフォンをつけているのにもかかわらず、相手の音が聞こえているのは2人だけなのです(もしかしたら、演奏の流れのなかで、誰のヘッドフォンからも音が聞こえ ていない時間があるかもしれません。また、その任意の2人はあるとき、突然のように別の2人へと切り替えられます。その判断はオペレーターに委ねられています)。
 では、なぜそのようなことをするのでしょうか。同じ音楽をヘッドフォンをつけて聞いたときと、つけないで聞いたときに印象が変わるという体験は、おそらく多くの人が共有している出来事だと思います。おたがいの音を聞きながら、即興演奏をするといった場合にも、ヘッドフォンをするのとしないのとでは、やはり音の聞こえかたはまったく異なります。ヘッドフォンをすることによって相手の音がとても「近くに」感じられるのです。その変化はひじょうに劇的な体験です。しかも、この「相手を近くに感じる」という体験は、じっさいの相手との距離(ステージ上で、おたがいがいかなる位置関係で演奏していたとしても)は関係ありません。ヘッドフォンによって「つながった」2人はおたがいの位置にかかわらず、おたがいの音を「近くに」感じながら演奏することができます。このことは、認識のパースペクティブ(遠近感)とも呼ぶことのできるものかもしれません。ステージ上には、じっさいに演奏する位置によるものと、ヘッドフォン操作によるものとの、2つの距離感(遠近感)が存在するのです*1。ヘッドフォンでつながった二人はおたがいの音を近くに感じながら即興演奏をします。では、つながっていない、残りの5人はどのような状態にあるのでしょうか。ステージ上の5人は、立つ(座る)位置は異なるものの、同じように存在しています。しかし、認識、あるいはコミュニケーションといった点ではどうでしょうか。誰ともつながることなく、ただそこにいるということです。存在はしているけれども誰もその人のことは認識していない、その状態は極端にいえば死んでいる人とあまり変わらないのかもしれません。そのような理由から、ヘッドフォンでつながっていない3人は、「死者の心電図のように(心肺機能を停止した人の心電図では、そのことがモニターのグラフ上に、水平の線によってあらわされるように)」、1音を延ばして持続音(ドローン)を演奏することにします*2。そして(オペレーターのよって)誰かとつながったら、相手の音を聞きながら自由な演奏をします*3(つながれていない状態になった演奏者は、いつも自分だけが世界の主人公ではないのだということを思い知らされることになります)。ひとつの体験として、落下する人は高度2000メートル以上の時点では地上は見えないが、それを越すと、地面が視界のなかで急速に拡大するそうです。そうしたことが音楽でも起こりえるということなのです。


2. delayed beings

 こんどは、ステージに上がるのは2人です。ミキサー(ハードディスク・レコーダー)に送られたエレキギターの音は、同じ機械に接続されたパソコンに、デジタル情報として送られます。パソコンのプログラムにより、出るのを遅らされたその音は、15秒ほどしてから、アンプ(スピーカー)から出力されます。つまり、リアルタイムでは、ギターを直接弾くことにより出る小さな音以外は、アンプやスピーカーから音は出ていないことになります。
 そのギターから出る小さな音もできるだけ聞かずに、でもあくまで2人で演奏しているという前提で即興演奏をします。その結果、遅れて出てくる音は演奏としてはどこかちぐはぐな、ある種不恰好なものになってしまう可能性が高いと思われます。
 でも、ひるまずに(遅れて出てくる音にも反応せず)、あくまでも同じステージ上にいる相手と、デュオとして二人で演奏を続けることになります。
 では、なぜこのような演奏をするのでしょうか*4。
 人と人とのコミュニケーションにおいては、いつも最良の結果が出るとはかぎりません。むしろ、試行錯誤の繰り返しという側面もあるように思えます。そして、あるコミュニケーションがなにがしかの結果(形)となったときには、私たちはそれを受け入れることしかできません。結果はどうあれ、先に進まなければならないのです。
 また、コンピュータなどの機械の反応速度、レイテンシは、通常改良されるごとに反応速度が上がるのがふつうですが、それを逆に拡大するとどうなるのか、ということも考えのひとつしてあります。パソコンに入力された音が、拡大されたレイテンシによって、むしろ遅らされて再生されるのです。


3. Johnny B. Goode

Deep down Louisiana close to New Orleans.
Way back up in the woods among the evergreens
There stood a log cabin made of earth and wood
Where lived a country boy named Johnny B. Goode
Who never ever learned to read or write so well
But he could play the guitar just like a ringing a bell

Go go
Go Johnny go
Go
Go Johnny go
Go
Go Johnny go
Go
Go Johnny go
Go
Johnny B. Goode

He used to carry his guitar in a gunny sack
Go sit beneath the tree by the railroad track
Oh, the engineers would see him sitting in the shade
Strumming with the rhythm that the drivers made
People passing by they would stop and say
Oh my that little country boy could play

Go go
Go Johnny go
Go
Go Johnny go
Go
Go Johnny go
Go
Go Johnny go
Go
Johnny B. Goode

His mother told him “Someday you will be a man
And you will be the leader of a big old band
Many people coming from miles around
To hear you play your music when the sun go down
Maybe someday your name will be in lights
Saying Johnny B. Goode tonight.”

Go go
Go Johnny go
Go go go Johnny go
Go go go Johnny go
Go go go Johnny go
Go
Johnny B. Goode

 会場にチャック・ベリーの〈ジョニー・B・グッド〉が流れたあと、ステージ上で、ひもで拘束された4人が〈ジョニー・B・グッド〉を演奏しようとします。手足を縛ってしまえば曲を演奏することはできないでしょうから、断続的に楽器が鳴らされるか、パフォーマンス的な動きになるか、もしくは縛られていることをアピールするか、などの状態*5 になることが想像されます。 基本的には曲を演奏する、という意味での演奏らしい演奏はおこなわれない可能性が高いように思います。その状況を見ていただくことになります。この演奏は、マシュー・バーニーの《drawing restraint(拘束のドローイング)》から発想されました。


4. a boogie
 これはマヘルの曲です。ギターのカッティングに4つの種類があり、それが楽譜では人、雄牛、ライオン、鷲で表されています。存在とはインテレクチュアル・デザインという考え方で簡単に説明できるものです。



*1 近さと遠さについて、じゃっかん認識の違いがあります。ここで強調したいのは、演奏位置の遠近というより、ヘッドフォンによる音の遠近とそれにともなって引き起こされる心情的な遠近、のふたつの距離感です。ヘッドフォンでつながることによって、近い人でも心情的には遠い人がいます。そういうときはたとえ近づいていくように見えても、「近さのなかへ沈んでいく」ような遠ざかり方をしていることになります。つながっていないときでも、恋人だったりする場合は逆に、「遠いけれど生々しい」といえます。物理学では4つの力があります。重力、電磁力、強い核力、弱い核力です。敵のなかに味方を見、見方のなかに敵を見る、とは過去の闘争においてよくいわれたことですが、この変換の試みのなかで、音楽の放射性崩壊を阻止する弱い核力のようなものまで見つけることができるでしょうか。

*2 つながっていない奏者は、自分の「その日のルート音」を演奏します。ルート音は体を楽にしたとき、自分にとっていちばん楽に出る音程のことで、その日の体調や湿度、気分によって変わります。

*3 誰かとつながった場合、まず相手のルート音が聞こえてきます。それによってたがいは影響を受けます。その音程の違いから対話が始まります。自分より高い体温の人の高いテンションに接した場合、自分のルート音が相手に吸い寄せられていくのがわかるでしょう。それに抗うのか従うのかをまず決定しなくてはなりません。次に自分の答えに相手がどう反応するかをたしかめなくてはなりません。そのようにして会話していくような演奏が望まれていますから、演奏者にはある種の左目=右脳的な音感が求められます。それで今回の出演者は、前回の《旋律とはなにか》で演奏した‘non-musicians’ではなく、‘left-eyed guitarists’となっています。実質はパゾリーニの映画の役者さんたちと同じでいつものメンバーですが。

*4 リアルタイムの即興、という拘束はヨーロッパ・フリー・ジャズの遺産ですが、これはそれにたいするひとつのアイロニーです。杉本拓氏の言い方を借りるなら、この場合、レイテンシを極限まで引き伸ばさないと「ソリッド」ではなく、「アブストラクト」な演奏にしかなりません。たとえば聞こえてくるのは100年後、とか。

*5 ひとつの状態しか認められません。演奏者は禁令下に置かれたエチオピアのミュージシャンのように必死で演奏しようとしなければなりません。たとえ頭や足や胴体を使ってでも演奏する気迫が必要です。ぼくは1970年代にゴールデン街のハバナムーンという店でピアノを弾いていてよく水をかけられたりボトルを投げられたりしましたが、いちどピアノのふたを閉められたことがありました。そのときはペダルだけを使って演奏を続けました。


(終)


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