Real Edge Performing Arts Complex Matsuyama Arbeitsjournal

サボテン
Arbeitsjournal
2025年1月20日更新

Real Edge Performing Arts Complex Matsuyama
(2012年11月10日)


工藤冬里



 ドゥルーズ・語り 筑前琵琶上のPTSD 活断層とプラトー 再再廃墟化する他の岬として佐田岬半島の野積み緑色片岩がスレート化する 一幕一場一人デモ

 スレート化した別腹たちを「ないふり(地震)」が素粒子化する。伊方正門前ノイズカフェの質量が時空を歪める。

 白い鳥が羽根をも落とす 黒い烏が羽根をも落とす 赤い鳥がまた羽根落とす それを拾いて俊徳丸の 五体六根なでまわすやら 元の通りに平癒なさん

 最近の、protectionとしての音楽の役割を探る《wall of sound》というプロジェクトに寄せられたテクストに散見されたのは、音楽の自律的な振る舞い、外部における勝手な、あるいは主体の無意識の身体性の許可にもとづく、リトルネロでした。
 俊徳丸のノモス(通底する口笛のような)は、幸福の追求です。
 その設計図(暗号化された線としてのそのコード)は、継母によりレプラの盲者とされることで逼迫したリズムを生みます。
 私たちが佐田岬の被爆を予定されている環境に対して開いているとき、同じリズムが生まれます。中央構造線活断層上の伊方の「ないふり(地震)」が「ないふり」をしていると、リズムはコツコツという秒針の猶予期間としての閉じたツリー構造のビートを刻みます。伊方町の雇用をはじめ、すべての批評性に開かれているとき、はじめて俊徳丸のリズムで生きることができるのです。
 同じ歌を違うコードのもとで歌うとき、わたしたちは開かれていきます。カラオケに乗せて、開かれた詩を朗読するとき、同じ歌はテリトリーから出ていきます。そしてそれこそが、音楽の大事な役割なのだということを、《wall of sound》は教えてくれました。反原発デモの金曜日の反復における、差異にこそ注目しましょう。同じ歌を歌いながら、変わり続けましょう。大熊のビクトル・ハラはアナクロであることから、差異の測定器として機能しなければなりません。ルーがヘロインからもっとも遠い地点で歌った〈ヘロイン〉のように。それはいつもノスタルジーから始まりますが、日比谷禁止といった線が引かれることで、コードとしてのデザインを変えていきます。クリティカルな拍子の誕生です。主催者がいつも直面するのは、そのときどきの我方他方のカオス化に橋をかけることです。
 警察権力とのコード変換によるふたつの絶対的に異質なもののダンス。「あなたは何を見るか」「ふたつの宿営の舞いのようなものを!」敵対、ダンス、敵対、ダンス、敵対、ダンス。毎週橋を架けなければならない。馴れ合ったらツリーになって、ビクトル・ハラが取り込まれてしまう。
 ぶつかるときの響き。サウンドが官邸ないし議事堂の壁面にぶつかるときに剰余としてのサウンドの価値が生まれる。それはぶつからなければ得られなかったビクトル・ハラの新しい相貌。ダンスであるだけでなく、壁面との合奏であるような領土化。それを初めて政治性という。
 相手の繰り出すリズムは一秒一拍のメトロノームのような時間性をもつ。スリッツとレインコーツの差異にこだわったのはそういう理由による。「反抗は、どうしてもアナーキーでなければならない」。
 白い風船は弱い領土性の象徴であった。それは集まってからその数のゆえに領土性をおずおずと主張しはじめた金曜日の経緯と合致する。それがリズムを規定したのだ。
 このデモは、身体の領土性の問題であった。身体が、音楽を許可し、俊徳丸のリズムで表現行為をおこなったのである。
 「繰り返し、繰り返し、その先は、どこに向かっているのかわからない(Fridays)」
 これは、音楽の、複合リズムとしての宙吊りの身体性の感覚をよくあらわしている。旗や衣服のデザインは、政府の建造物の壁との「ダンス」、「合奏」といった言葉であらわされる、環境との臨界点でなければならない。
 アクティビストたちによるポスターのデザイン展で見るべきは、ビクトル・ハラの場合と同じく、たしかにロシア・アヴァンギャルドとの差異性なのだ。
 美は壁の領土化に先行する。政治的行為も身体性の機能に先行する。両者は表現行為だからである。  希望をもたない者は表現に生きよ。支配者も被支配者も、奴隷も金持ちも絶望せよ。それが希望の国と発音する意味だ。
 タギングやボミングといったグラフィティは署名行為である。落書きが権力にとって脅威なのは、それが究極の領土化の表現だからである。世界の終わりとは神の署名行為であるだろう。そこに向かって機能と表現をずらし続けていく。裁縫も署名行為となりうるのはそうした理由による。
 そうした政治的行為が抽象機械となり、壁がなくなっても機能しようとするとき、それが内ゲバのツリーに閉じないために必要なのは、やはり反復のなかに差異を見ることしかない。その健全性は、硬直した身体と音楽の自律的な機能によってあるいは保たれるかもしれない。
 デモとはスタイルとしての「顔」と「服」を表現すること。政治に整体を受けながら歩いていくショーのようなものです。純粋な目をもち、複雑な顔をする演劇の路上稽古のようなものです。
 『サンチャゴに雨が降る』は、首都の街を脱領土化しました。風景を二重化するのが音楽です。
 デモのスタイルはいつでも変わります。デモという言葉さえも。それはE電とかJRとかハローワークといった愚劣なソフトランディングであってはならず、新たなノスタルジーから始まり、そこからさらに一歩を踏み出すものでなければならないのです。
 デモのオルガン(器官)は家族であってはならない。有機は凝固してしまうからだ。
 デモは空虚から逃れるための、器官なき身体のダンスである。
 記憶のなかの桜井大造は若い人に積極的なサークル活動を勧めなかった。システムの一部になることで身体がファシズム化するからだ。
 デモから逸[はぐ]れよ。「お堀のあたりを歩いていけば、なんだ神田で御茶ノ水」だ。
 そういう身体を維持するんだ。音楽のように。そこまできて初めて俊徳丸が呟くだろう。「伊方」と。


(終)


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