2007年1月27日のインタビュー Arbeitsjournal
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2025年1月20日更新
2007年1月27日のインタビュー
工藤冬里
Is it true that you met your first band member Hiroo Nakazaki on a building site in Tokyo; you discovered that he could play euphonium and then you decided to form Maher? What attracted you to Nakazaki?
メイヨ・トンプソンに《Dear Betty》という、ユーフォニウムが効果的に使われている曲があります。当時私はその曲がすごく好きだったので、中崎がユーフォニウムを持っているということを聞いたとき、すぐにギターのある種のカッティングとユーフォニウムの響きが組み合わさった心地よさについて彼に語り、バンドに誘いました。彼はヒッピーで、南方の島のコミューンで漁師をしていたこともありました。田中眠のもとで舞踏をやっていたこともあります。彼の和光大学系の人脈を通してのちにたくさんの人がマヘルに参加しました。彼は自分で作曲することはせず、スコアどおりに演奏することに喜びを見出すタイプの非音楽家で、彼のためのスコアを書くというコンセプトと彼のノンタンギングの吹奏法によってマヘルが可能になったといえます。
Why did you insist for your debut album that if the Org label was going to put out an album (“Return to Rock Mass”) by Maher, then they would have to put out all of your songs?
自分の曲をスタジオで、しかもアナログで録音させてもらえる機会はそれまで一度もなかったので、オルグレコードの柴山伸二から申し出があったとき、それは夢のような出来事に思えました。今までに作った曲をあるだけ録音してくれと言われたのでそうしました。作業は5年、経費は1000万円近くかかったようですが、その当時の彼が他人のためにそこまで情熱を傾けた理由は、彼自身にさえわからないのではないかと思います。私のバンドは下手だったので貶されてばかりでしたが、振り返ってみると、いつも誰かひとりは柴山のような理解者がいて、便宜を図ってくれていました。
You once said “I am a punk.” What is punk to you? In what way do you consider yourself “punk”?
パンクはアイロニーで武装していました。ドゥルーズ風に言うなら私はパンク機械なのです。「私はパンクだ」とわざと言ってみせていることがパンクなのです。こうした言い方は70年代後半のパンクとフリージャズの時代を通ってきた人々、とくに実際のパンクについてはそれらを馬鹿にしていた人々に刻印されている共通の精神だと思います。
Why did you go to London to study pottery as opposed to, say, studying in Japan?
父親がバーナード・リーチらの指導を受けた民窯の陶工だったので、イギリスの陶芸には親しみがありました。イギリスの陶芸家たちは日本の陶工のことを買いかぶっています。日本では失われた伝統的な製法の納豆や豆腐がアメリカで食べられたりするのと同じように、民芸運動の素朴な気風が残っているのは日本よりむしろイギリスであるとさえいえます。それはたとえばマグカップの取っ手の付けかたなどに現れています。それだけでなく、教えかたに関しても日本と英国のメソッドは、根本的に異なっています。日本の教科書では焼き物の産地の紹介からはじめ、既製の方法の再現をめざしますが、ロンドンの学校では、地球の組成から話をはじめ、元素周期表を使った焼成結果の予測が基礎知識になります。私はマイケル・カーデューの“Pioneer Pottery”という本で勉強していましたが、マイケル・カーデューが作曲家コーネリアス・カーデューのお父さんであることを知ってすっかり嬉しくなり、マイケル・カーデューが開いたwinchcomb potteryに行ってみました。今はFinchさんという人が引き継いで少人数でやっていました。その息子さんのマイケル・フィンチさんも以前は音楽をやっていて、バンドで南アフリカをまわったということでした。「彼らは真のポッターよ」、と私の学校の先生は言いました。
How did you get involved in the Anti-Japanese Movement/Eatern Asia Anti-Japanese Armed Front? What did these organizations hope to achieve?
反日という言葉を日本で安易に使うことの危険性をあなたはわかっていません。日本において天皇暗殺を企てるということは、その思想を支持すると表明するだけでも公安の徹底的な捜査の対象になるからです。共産主義が掲げた「国家の廃絶」というテーゼを突き詰めると、少数民族であるアイヌや沖縄人民による日本政府打倒ということになります。日本人としてその思想に同調するためには自らが日本人であることをやめなければなりません。そういう意味でそれはある面情緒的なムーヴメントでした。「自己否定」という言葉がひとつのキーワードでした。アメリカ西海岸において、ロスアンジェルス・フリー・ミュージック・ソサエティのリック・ポッツ氏たちが、白人による自己否定の表現の、アナーキーなひとつの果てを示していた頃です。最近になって、「半日」思想を持ち込み、資金援助していたのは北朝鮮の工作員ではなかったか、という疑惑が浮上しています。もしそうだとすると、「半日」の青年たちは「自己否定」という言葉に酔わされただけだったということになります。
Your liner notes to “Live 1984-85” say you once performed with a baby strapped to your back. Did you ever consider getting a babysitter?
I’ve heard that two of the original members of Maher (Koichiro Watanabe and Masami Shinoda) committed suicide. And that Watanabe played with you in a Suicide/Alan Vega tribute band called Tokyo Suicide. Is that correct?
In the press release for the new album, your record company says you “maintained your silence” during the 1990s. If that’s true, how did you spend the 1990s?
Were you once a Jehovah’s Witness? Are you now still? How did you get involved?
You’ve described Maher Shalal Hash Baz as meaning “quick spoil, speedy booty.” Have you ever stolen anything yourself? And did you make a quick escape?
Where are you e-mailing from? Could you describe your house where you live, and you’re daily routine?
You once said that you didn’t consider yourself “successful.” What is success for you? Have you had to compromise in order to try to achieve success?
「成功」という言葉を聞くと、1981年にニューヨークで録音した曲を思い出します。その出だしの歌詞は「成功した日の反復を、でもぼくは反復を信じない」というものでした。成功は反復できないので、ロックにとってはそこにノスタルジーや自己模倣の問題がかかわってきます。何をもって「成功」というのか考えると、10代のころ毎日ピアノで即興演奏をしていたことを思い出します。毎日、ある高みにきたと感じられる地点まで弾き続け、その精神的な達成の度合いによって、その日自分がやるべきことをどのていど済ませたかどうかに関する実感を得られました。その感覚は、スタジオでいくつかの反復の果てに、これがマスター・テイクだ、と判断する瞬間と似ています。反復のなかで、ある種の差異が取り分けられ、神性にされ、是認されます。興味深いことは、合奏していて、他の人の演奏がうまくいっていてもいなくても、その演奏全体の良し悪しは私の演奏に対して私が満足しているかどうかにかかっていることが多いということです。他の人の不完全さに関しては、投げ出してしまうことによって妥協できます。この曲はもっといい曲のはずだ、と思うことがよくありますが、そういうときは演奏性よりもドキュメントとしての一回性を意識することで、気持ちを整理しています。
Could you tell me briefly about your background in jazz music?
ジャズは中学生のとき、バークレー・メソッドの本を少しやったくらいです。中学のころから大人に混じってナイトクラブやビッグバンドで商業的なピアノを弾いていたことはありますが、コード分解とそれに則ったバップのクリシェをサックス奏者たちのように1日何時間も反復練習するということはありませんでした。モードはコルトレーンの練習法である、手癖で覚えて弾くやりかたを少し真似たこともありましたが精神的にはそれはドルフィーよりは劣った方法であると思い、即興でやることがなくなってしまったときにしょうがなくやるくらいでした。キース・ジャレット的なものを非常に注意深く避けてきましたし、マイルスとそのピアニストたちは最初からまったく退けていました。
What is “Kunitachi style”?
日本のインディコミックシーンの中核的な雑誌であった「ガロ」の1971年3月号に阿部慎一の「美代子阿佐ヶ谷気分」が掲載されましたが、『マヘル国立気分』のタイトルはそのリミックスです。東京の西のoutskirtsである武蔵野をJR中央線が走っており、その各駅は国木田独歩や太宰治といった、近代化以降の東京の鬱屈した文学青年の「無頼派」的なエピソードを刻印しています。「阿佐ヶ谷」も「国立」もその中央線の駅の名前です。国立は大学のある通りの並木がきれいで、散歩するにはいい町です。音楽学校があり、音大生専門の「葡萄園」と呼ばれる長屋に行って声をかければ、その日のライヴのホーン奏者などはいくらでも調達できました。
What sort of kinship/affinity - if any - do you feel with the Glasgow indie-pop scene?
19世紀後半の日本の明治維新政府はその欧化政策にともない学校教育にケルト民謡を導入し、それがそれ以降の日本人の音感の表層的なルーツになったかに見えました。マイクとアンプリファイアーの力を最大限に活用し、誰に聞かせるともなく囁くようなネオ・アコースティックのヴォーカル・スタイルは、日本人にとって馴染み深いナースリー・ライムのように聞こえるのです。
しかし事態はそれだけではありません。Glasgow indie-pop sceneの旋律は、表層的なものに留まらない下部構造としての日本人のルーツにさえも触れている可能性があります。ケルトの旋律に特徴的な3度下降は、2度、4度を基調とするギリシャにはないものです。それは奇数であるゆえに8度のオクターヴを必要とせず、無限の上昇と下降を可能にします。この特徴的な3度下降はほかにはアメリカ原住民のなかにのみ見出せるものです。スコットランドにはピクツと呼ばれる顔に刺青をした原住民がいましたが、それは縄文的な原日本人のひとつであると思われる北海道、樺太に広がるアイヌなどの北方諸族やアメリカ・インディアンと似ており、彼ら同士の親近性を考えると、雅楽以前の日本人の音楽やデザインの感性のなかにピクツ的ひいてはケルト的なものの原形があった可能性は否定できません。
たとえば、これはあくまでも仮説ですが、日本の学校教育のなかで使われてきた、イングランドとスコットランドの境界の地方の民謡である《グリーンスリーヴス》の旋律のなかに、ケルト的なものとギリシャ的なものがせめぎあっているような気がします。ラ ド レ ミ ファ ミ なのか、ラ ド レ ミ ファ♯ ミ なのかを選択するのに迷った経験のある日本人は少なくありません。ファを通過する装飾音と考えるか、重要な3度下降のStonehengeとみなすかで、その人の“縄文度”とか“ローマ化度”がわかるかもしれないのです。
ロックのなかでも、マーク・ボラン的な3度下降のコード進行と、ルーリード的な2度、4度を基調としたコード展開とがあり、ポップミュージックは畢竟その2つのせめぎあいによって成り立っているといってもいいと思います。たとえば元オレンジジュースのジェイムス・カークの歌う“get on board”を聞いてみてください。グラスゴー・スクールのなかで3度下降が使われるのを聞くのは、たんなる一青年のヴェルヴェット殺しを見物することではなく、歴史性を背負ったある甘い雪崩れのような経験なのです。ここ2000年の、ローマから英米世界強国につづく世界支配にたいして、フランスは1990年代にワールド・ミュージックで対抗しようとしましたが、スコットランドはいってみればイギリスのなかのフランスなのです。それはサッカーと同じく必敗の美学なのであり、それが自分の琴線に触れるのだと思います。
(終)
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