1983-5 国立 Arbeitsjournal

サボテン
Arbeitsjournal
2025年1月31日更新

1983-5 国立
(『マヘル国立気分』ライナーノーツに掲載)


工藤冬里


子供が生まれそうになったのでぶどう園を出て東1のアパートに間借りして土方に出た。台所の流しで産湯を使っていたら浩一郎が来て、写真を撮り、宝物だったらしいトッパンの絵本「ゆめのおうち」というのを呉れた。写真はあとで引き伸ばしたのが送られてきた。木股さんも或る夕方に急に来て、例によってニコニコ堂の裏に捨てられてあったような羽の生えたみ使いの置物をお祝いと言って置いていった。マイナーの佐藤さんと金田一さんは怪しげな様子で連れ立って来てヴィデオを回していった。灰野さんとリタちゃんも来たが、彼のお母さんが保健婦さんだったらしく赤ちゃん用のクリームと、あと何かの子供用のペラペラのソノシートとメイヨのソロのカセットを呉れた。角谷も病院から出て来て、子供を負ぶってテントでやっていた南民線オーケストラを聴かせるときみはいますごいところにいるんだな、と言って帰っていったのが最後になった。その年は大雪が降った。いろいろあって山谷に移住しようとしたが慰留された。ソロではその頃教条主義的な、綱領を読み上げるだけのようなことをしていたが、竹田さんからもっと自分のために演奏したら、と言われたので山崎のところに居た藤沢みどりに三谷を紹介してもらい、家が近所だったのでベースを頼んだ。ギターは知り合いのSGを借りっ放して使った。散歩は大学通り東側の一橋構内、学食は西側、練習は富士見通りのエアガレージだった。よく仕事に行かないで吉祥寺あたりで途中下車して喫茶店で楽譜を書いた。バンドを始めた、と言うとレッドが喜んで、自分も成田くんとハイライズというのをはじめたのでキッドを借りましょうといった。金子とミックも呼んで、12月14日にやることになった。ギターにトロンボーンを立てかけたドローイングに光束夜、PSFハイライズ、と書き入れてポスターにした。当日になって西村、髙橋朝、向井も来たので、シェシズのツアーのとき京都で歌詞が出来て小山景子に見せたっきり忘れていた「坂道」を思い出してやった。「蝶」は持っていたSP盤の地歌のフレーズ「娑婆も冥土も初春の」から取った。「ルーアハ」は多摩蘭坂のRCサクセンションのファンの落書きを見たあと、風の強い日に台所で思いついた。「ばった」はワンコードワンダーの伝統にソロモンのテキストを乗せた。客は20人位だった、モダーンという近くのレコード屋の人も見に来ていた、とレッドが言った。年が明けて国分寺のモルガナに森下と朝を呼んで「夏」を初めてやりその演奏が国立気分の雛形になった。現場で釘を踏み抜いて働けなくなったので血液検査の仕事に切り替え、徹夜明けの北口の白十字や不二家で篠田や卯多や中崎、キワメさんなどを想定して「腰砕けの犬」のような大きなスコアを書くのが日課となった。2月には再びキッドでやり(俺はまだタバコを吸っていた)、次は6月にD’sレーベル中矢誠に呼ばれて西荻のWATTSでやった。WATTSでは小山哲人や白石さんのバンドで一緒にやっていた夢音の子らもきて盛んに野次を飛ばした。その夏はDunkelzifferをかけながら岩田や佐々木さんやアビバンダンや髙橋幾郎とキャンプ座間/相模原の草刈りをして過ごした。その後幾郎は駅前ロータリーのみちくさ書店に飛び込みで働き始め、「子供の白い綿のような心に染み込む」とか書かれた棄てレコードを沢山呉れた。87年くらいまではそんな風にしててアマルガム以来の雑誌内雑誌の「みんな」は居た。その後我々は離散した。


(終)


トップにもどる